自 己 責 任

 日本中を熱狂させましたサッカー、ワールドカップも終わりました。
最近、野球でもサッカーでも応援風景が以前とはかなり変わっているようです。試合を見て応援しているのか、それとも応援しているもの同士が騒いでいたいのかわからないのです。
同じ仲間で『群れ』ながら応援しているように思えるのです。それだけ孤独に対する恐れがあるからなのでしょうか。確かに孤独ほど悲しい、つらいものはないでしょう。しかし人間は根源的に孤独なのです。『独生、独死』が人間だからです。このことに正面から向き合わずに集団に紛れ込ませてしまう弱さが本当の自分自身を見失わせてはいないでしょうか。集団と組織の中に身を隠し、集団の組織力で自身の弱さを隠蔽してしまったり、はぐらかしてしまいます。集団の力というのは、個人の罪さえも軽減し、見えなくしてしまいます。
フォークゲリラ歌手、泉谷しげるさんの歌に『戦争』というのがあります。
『戦争だ 戦争だ、戦争だ、待ちに待った戦争だ 人が殺せる戦争だ、国が認めた
戦争だ いくら殺しても大丈夫 なんぼ盗んでも平気だい やればやるほどほめられる』
国家という、最大の集団が殺人行動をとれば一人一人の殺害行為は許されるのです。
『殺すなかれ』と解かない宗教はないでありましょう。しかし集団、それも大きければ大きいほど許されてしまいます。集団自衛権、有事法制、ガイドライン、これらを作らなければならない人間の悲しみを思います。そのことを痛みとして感じている政治家が日本には何人いることでしょうか。『みんなで渡ればこわくない』、甘ったれ思想が充満しているように思えてなりません。
政治の世界は権力をカサにきた政治家の言いたい放題、やりたい放題、政治責任が問われることもなく、その時にはもう本人は引退ですんでしまいます。経済の世界ではひたすら、企業の利潤が最優先され、果てしなくかえって働く人々を苦しめてしまう、そしてだれも責任をとろうとはしない。教育現場でも、大人の世界に適応できる人間になることを強いられ、管理教育という鋳型にはめられてしまう。いかに今の私たちの生きている時代が息苦しいかを思います。こんな時代に多くの若者が考えもつかない、おかしな宗教に走ったりします。しかも『あの人が』と思えるような、真面目な若者が入信したりいたします。(オウム真理教などは典型です)あるテレビ番組で入信した若者へのインタビューが行われていました。『なぜ、入信したのですか?』『ここに来るとみんなが友達のようになれる。みんなやさしくしてくれる。苦しみ悲しみが癒される』というものでした。確かに宗教は『こころの問題』としてこのような一面があることを否定しようとは思いません。
しかしそれだけでは単に、『なぐさめの宗教』だけであります。しかし、本来の仏教の問題はこの先にあると思うのです。それは自身に対する冷徹なまでの厳しさであります。己の勝手な都合がかなうような宗教は真実とは申せません。『私の生きるている自己責任がもっともっと自身で追求されたらなぁ』と思います。仏教を聞くのはここのところでないでしょうか。