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人権と正義
 
戦後の教育は人権の回復から始まったように思えます。戦争中の反動なのかもしれません。憲法までもが基本的人権を高らかに謳っています。しかし今でも人権がないがしろにされるような事件は後をたちませんね。人権は大切なものでありましょう。世界中で人権、又正義ということが言われ続けられます。一九四八年に「世界人権宣言」発せられた第一条は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等でなければならない」と宣言されています。人権とか正義とかはもともとキリスト教から出てきた考え方です。
 キリスト教では神はあらゆるものを創造し、人間に自由と幸福の追求のという権利を与えられています。人権をそこなうものは悪であり人間ではないということにもなっていきます。
 生まれながらにして人権が与えられているということはどういう事なのでしょうか。
 人権の尊重は崇高な理念であります。しかし仏教には本来、人権という考え方はなかったように思えるのです。人間だけが生まれながらにして人権という権利を与えられているというのはどこを探しても仏教の中からは出てきません。正義というのも言葉は美しいのですが、「はて正義とは?」と問われますと困ってしまいます。法律と正義は別物でしょうし、道徳とも少し違うようです。何せ「正義の戦争」というように自分勝手な正義さえもあるようです。人権とか正義という考え方は白黒をはっきりとつけることになります。争いもお互いが正義の戦いになりやすいのです。そこには「自分は決して間違っていない、正しいのだ」という思いがあります。 あたかも人間だけが特別の存在のようです。仏教の見方は「山川草木悉有仏性」の考えが基本です。この世に存在しているものすべてが尊いと言うことです。イエス・キリストは人間の罪を背負って十字架にかけられました。お釈迦様はキノコの毒にあたられお弟子に見守られながら涅槃に入られました。お釈迦様の涅槃図はお弟子、動物、草木までも真っ白になり嘆き悲しんでいる図であります。人間だけが特別な存在ではないと言うことです。仏教は人ばかりに権利が有るのではなく、動物、植物も権利があると言うことです。牛や豚は食べられるために生きているのか?草や花には生命はないのか?「牛権」「豚権」はないのか?
 仏教は縁起の教えです。尊くないいのちなどはどこにもないのです。浄土真宗には「凡夫」という考え方があります。「罪悪深重の凡夫」は親鸞聖人の人間観でもあります。凡夫というのは欠点だらけと言うことであり間違いを犯しうる人間ということであります。誰かがおかしな事をすると私たちは笑ってしまいます。しかし「私が凡夫」という立場にたちますと笑えません。そのおかしな事を私もしてしまう可能性があるのです。「さるべき業縁のもよおせば いかなるふるまいもすべし」(歎異抄)縁があれば何をするかがわからないのが私です。私の心がよくて良い振る舞いをするのではありません。たまたま縁がなかっただけなのです。お互い凡夫が社会を創っているのですから穴だらけで、間違いだらけです。しかしこの凡夫の思いこそが人と人をつなぎ、あらゆるものと支え合っていけることなのです。政治でも犯罪でも人権、正義の名の下に指弾ばかりです。悪いモノ叩き、他を批判するのは楽しいことなのでしょう。
 「お互いが欠点だらけ」ともう少し寛容の心を持てたらと思いますが・・・