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 「人  災」
 
今、私達が生きているということは、生きている場所、土地、空気、水、光、これらがあることで存在が可能になっているのですが、どうもその基本となるこれらのものを忘れがちです。 空気とか水とか光をあまり意識もせずに生きていますね。自然は時には脅威として襲ってくるのですが、人間はそれらと折り合いをつけて生きています。折り合いが悪いのを災害と言うのでしょう。天災、地変を食い止めることは出来ません。被害を最小限に止めようと踏ん張ってみても地球がちょっと揺れるだけで人間などはひとたまりもありません。大地震、噴火、津波、動物も植物もすべて巻き込まれます。しかし防げる災害はあるのです。それは「人災」というものです。限りない人間の欲求は「人災」を生み出しています。経済性と利便さを求め欲望に限度はありません。他の動植物は二次的なこのような災害は起こしません。動植物が原因で起こる災害も人間が深く関わっています。外来種の勝手な持ち込み、生態系の破壊、これらもすべて根本原因は人間です。「人災」は人間だけです。水を汚し大気を汚し海を汚し山を削り自然の姿を変貌させやがてこれらの行為が人間に襲いかかる循環をしているにもかかわらず、懲りない人間がいます。人災を起こす原因を造っている人間は意外と気がついていないのかも知れませんね。そのことに気づくのは被害にあった人たちなのかもしれません。
「あらゆる動物の中で赤面するのは人間のみである、赤面に値することをやらかすのも人間のみ」(マーク・トゥエン)。人間の欠点をマーク・トゥエンは皮肉たっぷりに厳しく見つめ、しかし彼は人間を「地球に暮らす輝かしい生き物の中では最低のヤツではあるが、もし自らの欠点に気づけば救いようはあるかもしれない」と希望をも持っていたのです。人間は地球にとって最悪の寄生虫のようなものかもしれませんね。しかもそのことになかなか気づいていても気づかないふりをしているようです。さんざん破壊の限りを尽くしても、その破壊の場所を振り返りもせず捨ててきたのではありませんか?今現実に、放射能で汚染されたフクシマがそのような嫌われものになっています。被害にあったのは人間だけではありません。残された家畜、自然の動植物、海の魚たち、すべてが人災の被害者です。人間の想定外という言葉も流行しましたが、事故は机上の確率ではないはずです。専門家はいつも最悪の想定をするものでしょう。「人類の進歩と調和」、大阪万博のテーマでした。生活の便利さは飛躍的に進歩しました。
 なぜなら科学や機械は次世代に受け継がれていきます。発展に終わりはありません。
 しかし人間の内面そのものはどうなのでしょう。文明は次から次へと新しいものを生み出しますが、人間自身が昔の人間よりも優れているというのはあまり聞いたことがありません。
 人間の精神性とか倫理性、宗教性はむしろ退歩しているのかもしれませんね。財産やモノを残すことには必死になりますが、本当に私達が次世代に渡すバトンは何なのか、真剣に考えなければならないと思います。釈尊が二千五百年も前から指摘されているのはこのことでしょう。 日本中がコンクリートと空が見えなくなる高層建築に囲まれ大地が呼吸できません。
 このような国を私達は祖国と呼び故郷とよんでいるのです。