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                 自 灯 明

今の日本で最も影響力の大きいものの一つはテレビでないかと思います。いつでもテレビでの放映の中身が話題になります。携帯電話や、インターネットは世代があると思いますがテレビはそれらのことはお構いなく誰でもいつでも気楽に見られるものとして世代を超えて影響力も絶大のものがあります。しかし最近は視聴率第一主義のようで、すべてがこの数字に振り回される番組が多いようであります。視聴率さえ取れればなりふり構わず・・・であります。
 『良い番組は売れる』のであれば良いのですが『売れる番組は良い』とは言い切れません。
『視聴率が高いから良い番組』は『売れさえすれば良い番組に』姿を変えているように思えてなりません。スポンサーの意向もあるとは思うのですが提供する側も提供される側もどうもこの錯覚に陥っているようです。いま視聴率を確実に稼げる人は占い師の細木数子さんと言われています。先日から月参詣にまいりますと、あちこちから次のような事を言われました。『亡き人の写真を上にお飾りしたらよくないのでしょう』又『合掌は手を合わせて三回お辞儀をするのですか』等と言われます。良く聞きますと『細木さんがそのような事をテレビで話していた』と言います。テレビの影響力の大きさをつくづく感じた事です。
 他愛もないことならまだよろしいのですが、『あなた、死ぬわよ』などと「いのち」に関わる事までも、もて遊ばれてはたまらないことだと思います。以前『洗脳』と言うことが随分批判の対象になりました。
オウム真理教、統一教会、ヤマギシ会、どれも洗脳が一つのキーワードとして語られました。
 洗脳は色々な言われ方があると考えられますが、自分自身の考え方、生き方を他に預けてしまい自分で考える事を放棄してしまうことではないかと思うのです。これは一面では楽な生き方なのかもしれません。人生は迷いの連続ですからそこに、『ズバリ言うわよ』に預けてしまえば良いのですから。しかしそれは自分の人生の放棄に他なりません。人間として生まれた甲斐がないのです。親鸞聖人はこのような考え方を邪偽として捨てられました。バチ、タタリ、占い、まじない、物忌み、真実の人生からは遠いものとしてそれらのことを『かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす』と嘆かれたのです。
今日、これだけ科学が発達した時代にもかかわらず、多くの人がこのようなことに惑わされています。高島暦、宜保愛子、細木数子、織田無道、浅原彰晃、根っこは同じところから派生しているように思えてなりません。視聴率に一喜一憂する制作側、それに踊らされる視聴者側、どちらも思考停止状態に陥っているようです。自灯明は、まさにこのかけがえのない人生を、
自らが考え、自らの足でしっかりと歩むことなのです。本物を見分ける目を私たちは自らが考え続け、ご都合主義を打ち破っていかなければなりません。
ズバリ言うわよ・・・『アンタ死ぬわよ』(いづれね) 『不幸になるわよ』(人生は苦しみの連続だからね当たり前じゃないの)こんなところを乗り越えた世界が仏法なのです。おかしなことに迷わずに、自らの歩みを自らで歩みたいものですね。