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             循 環 社 会
 
 もう二十年前のアニメになるでしょうか、何度もテレビ再映されています「風の谷のナウシカ」という物語があります。先日も放映されていましたが、何度見ても新しい感覚があります。《瘴気(熱病を起こさせる山川の悪気)をはき出す森『腐海』は、人間にとっては嫌悪の対象のなにものでもない。それを吸えば人間の命などひとたまりもない。皇帝クシャナは人間がもっといい環境で住めるようにこの『腐海』を焼き払ってしまおうとする。
しかしナウシカはそれを阻止する。『腐海』はそんな単純な形で存在しているのではないことに気づいたからである。『腐海』の毒は人間が作り出したものであり、人間が汚した大地を浄化した結果が毒になってたまったものなのである。》
 そして風の谷の姫ナウシカは訴えます。「どんな恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きていけないのよ」と。
 地球上にあるすべてのものは循環しています。決して一方通行ではありません。一方では吐き出し、一方ではゴミ捨て場のようにたまるだけ、という存在の仕方は誤っているのです。私たちが捨てる汚物はどこにいっているのでしょうか。毎日毎日捨てているゴミはどこに行ってしまうのでしょうか。それを一方通行のようにしてしまったのが文明と言われているものなのでしょうか。汚いももの、忌まわしいものと考えられるものはすべて覆い隠してしまい、遠ざけてしまうのが文明なのでしょうか。
 『人間と自然との共生』と流行言葉のように言われますがそうなのでしょうか。
 『共生』ではなく人間が、自然にぶら下がって生きているようにしか思えないのですが
 人気ドラマ『北の国から』の最後の台詞「自然から頂戴しろ、つつましく生きろ」という言葉には小賢しい人間を叱る自然からのメッセージのように思えます。
 今、日本ばかりでなく、世界でもどこでも、一方通行ばかりのような気がします。
 グローバルという世界共通のような美しい言葉の裏に隠された、貧富の差の増大、強いものの一人勝ちの世界、どこを見ても循環社会とは言い難い現象がどこにも起こっているように思えるのです。仏教では『縁起』を根本原理として説きます。あらゆるものは、この縁起なしには存在することは出来ません。縁起は循環と言い換えてもいいと思います。
私が作った縁は自らが責任を負わなければならないはずです。しかし現実は、負わなければならない自らの責任は金力,権力、地位などで弱者に負わせ、負うべき責任は全く見えなくなってしまっているようです。足尾鉱山鉱毒事件で田中正造が訴え続けた『真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし』という訴えは今も、いや今こそ生かさなければならない言葉のようです。
縁起の教えを忘れた社会は、循環しない澱んだ川の流れのような人間関係しか生み出さないのです。弱者の悲鳴があなたには聞こえませんか。