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常楽我浄
 
経典の中に「常楽我浄」という言葉があります。お釈迦様が出家されたとき、人間の多くはこの世は無常なのに常と見ており。苦に満ちているのに楽と考え、人間本来は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかであると考えていると思われました。
 人間はどうも仏教の教えとは逆な見方をするようであります。そのようなことから、この常楽我浄を四顛倒(逆さまな見方)とも言います。仏教の基本的なものの考え方は、この世は無常であり、一切皆苦であり、諸行無常であるということになります。「常」というのはいつまでも変わらずにいたいと思う心です。いつまでも健康でありたい、若くありたい、長生きしたいと思うことです。「楽」というのは、楽しく、快適なことで、不都合な事は嫌う心です。
 快楽ばかりを追い求め、快楽の達成が人生の目的になっているような人もおりますね。
 「我」というのは私をいつも中心におくことです。「私が、オレが、自分こそが」と、自己主張が強く、他人から疎遠にされると腹が立ち、怒り狂うような人です。「浄」というのは自分や、自分の周りはいつも浄らかで間違いがなく正しいと思う心です。この四っを満たそうと血眼になって動き続けているのが私達の姿のようでもありますね。
 仏教では生老病死を四苦と言いますが「常楽我常」が満たされないからこそ苦しみなのです。私達はこれらのことを、すべてをかけて生涯かけて求めているのかもしれません。
 幼い頃よりこの常楽我常を満たそうと必死です。努力も知恵も必要です。これは、何でも「自分の思い通り」にしようとする生き方です。しかし世の中はそのようには動きません。
 いや世の中ばかりの事ではなく、自分自身の肉体も、精神も衰え、老い、病み、やがては自分の思いとは逆に死を迎えなければなりません。この悩みは自分の【いのち】を自分勝手に出来ると思う心が作り出しているようです。いのちの所有化を考えているのでしょうか。
 自分のいのちは自分のもの、自分の力でどうにでもなると思っているのでしょうか。
 人間は゛えらく゛なりすぎたのかもしれませんね。自分がいのちを造ったかのようですね。 いのちの私が先にあり、私の思いは後のはずです。しかし私達は自分の思いを先にしていのちを後にします。自分のいのちなら自分勝手にできるはずです。自分のいのちではなく「いのちの自分」ということが真実でないでしょうか。いのちの私ということが、仏教の縁起の世界の見方です。 私達は誕生も、生きていることも、死さえも、自分の思いを超えています。
 自己の営みも、出遇いも思いを超えています。その思いを超えた世界を「不可思議」と言います。私の分別、勝手な都合の良い思いを打ち砕きます。
 この世界を知ってこそ、私の本当の姿があぶり出されるのです。大きないのちの働きの中で【いのちの私】を知らされるのです。明日をも知れぬ、いのちの私が、限りあるいのちが、限りない、いのちにつつまれて、今生かされていることを聞くのを聴聞と申します。
 今、人間はクローンを造ったり、代理出産、卵子提供、産み分けなど【いのち】を操作するようになりました。しかしどんな時代が来ようとも【私のいのち】ではなく【いのちの私】を見つめることが大切に思えます。