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                             情    報
 情報技術の発達により、私達は以前より多くのことを、瞬時にして、しかも遠い世界中の出来(でき)事(ごと)を、知ることが出来るようになりました。悲惨なことも、驚くべき事も、スポーツでも、リアルタイムという、同時に知ることができます。しかも、ご丁寧な解説付きです。ところが、この便利なことが、私達を悩ませているように思えるのです。いや、悩ませると言うよりは、考えなくて良いようにしています。昔から「百聞は一見にしかず」とは言いますが、一面ではその事によって迷わされているように思えるのです。視覚から入る情報は私達は真実と信じて疑わないようです。ところが同じ場面を繰り返し何度も見せられたらどうでしょうか。ニュースでもワイドショーでもどれだけ同じ場面を見せられた事でしょうか。北朝鮮の金正日主席の横暴(ぼう)な態度、核施設ばかりを映し、危険を煽る報道、イラクのフセイン元大統領の機関銃を撃っている凶悪そうな映像、不祥事を起こした会社社長の弁明の言葉尻を捉えての繰り返しのバッシング、本人の人格よりも、テロリスト、悪人と最初から決めつけているような印象の報道ぶりです。そんな場面ばかりを見せつけられますので、何が実像なのか、虚像なのかわからなくなってしまいます。戦時中の大本営発表は、まだラジオか新聞で聞いたり読んだりしましたが、今はそれに映像がついてきますので、真実性が高いものとして受け取られてまいります。 テレビや新聞の報道にはウソはないでしょう。しかし、情報の操作は昔以上に悪質なのかもしれません。それらの情報によって、泳がされているのが視聴者なのです。食事処として放映すれば、すぐに行列が出来、昼間に体によいモノとして何かの野菜が紹介されればスーパーからその野菜が売り切れになるのですから・・・・・ とにもかくにも、日本国中お金になればです。テレビは視聴率、新聞は購読部数、スポンサーがつかないテレビ局さえ「ヤラセ」をしたのです。客観的な良質な報道と言うより、「視聴者」「読者」の『ウケ』が良ければ何でもアリです。流行言葉のように、品格、品性が問われているようですが、下品ですよね。
 様々な情報は私達に『何でも知っている』気分にさせるものです。戦争でも事件でも健康問題でも、それぞれの専門家が出てきて、分析、評論をしてくれます。 
 そのことによつて私達も何でもわかったつもりになってしまいます。戦争ならその国が抱えている歴史から文化、事件ならその背景に潜んでいる様々な事柄等、とうてい他人にはわからないことが多いのです。しかし私達はそれらのことも繰り返しのコメント、評論などで『わかったつもり』になって埋めていきます。分析も必要なのかもしれませんが、『私にはわからない』から出発すべきでないでしょうか。大量な情報は私の想像力とか、思考の力をどんどん弱めていくように思えてなりません。言葉や、映像で何でも表現できると考えるのは人間の傲慢さであります。人間の心のひだまでは、なかなか知り得ません。喜び、悲しみを正しく伝える事は何と難しい事でしょうか。親鸞聖人は「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」と嘆かれ、「善悪の二つ、総じてもて存知せざるなり」と自らの心を凝視されました。私の「わかったつもり」がどれほど他を傷つけているかを、知らされます。自己の足でしっかりと立つことを仏法は語ります。来年は変な情報に惑わされないように・・