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常   識

常識ー普通の人なら誰しも持っている知識、判断力です。ちょつと変わったことをしたり、おかしな考えを持っていますと、「そんなの常識だろう」等と言われてしまいます。
 若い方々は冒険心旺盛ですので、時には年長者より「常識無し」「そんなこともできんのか」等とよく叱られているようです。言い換えれば「常識」とは、当たり前のことなのでしょう。しかしよく考えますと、その当たり前の事を私たちはどれだけ知っているのでしょうか。
 当たり前の事とは、時間が過ぎようと、場所が変わろうが、変わらないものでなければなりません。そんな事を考えますと私たちの「常識」などは、あやしくなってまいります。
せいぜい、今、目の前のことだけにしか通用しない「常識」であったり、自分の厚い殻に閉じこもった考えの思い込みの「常識」にすぎないことが多いように思われます。私たちは現在の速い時間の流れ、そして考え方の多様化に、価値観と共に常識観も多様になっているのではないでしょうか。ですから今「常識」と言っても通用しない常識が結構あるのです。
 数年前「なぜ、人を殺してはいけないのか」という高校生の質問に大人が答えられなかったことがありましたが、大人たちはそんなことは「常識」としか思っていなかったのです。
 思いますと誰しも共通の「常識」を持って生きていると私たちは勝手に思いこんでいるのかもしれませんね。私たちが思っている「常識」は、道徳観や、倫理観からくる思いで、時間や場所が変われば壊れてしまうもので社会のルールのようなものです。日本の近代史の中でも常識は随分変わってきました。一日で国に命を捧げることより、民主主義になり、人権が叫ばれる、助け合いの世の中が、他人を蹴落としてでも「勝ち組」が、もてはやされるのが常識になり、人を助けたりすることが「トロい」等と言われてしまう、ヘンてこな話です。時代が変われば、人殺しが常識になってしまうかもしれませんよ。
 それほど私たちの思いこむ常識はあてにならないものなのです。
 本来の「常識」は変わらないものでなくてはなりません。場所や時間が変わっても・・・・
 仏教はこの真実の「常識」を伝えているようにおもえるのです。
 よく仏教は、お釈迦様が創作したのではなく仏法を「発見」したと言われます。二千五百年経過してもその教えが伝わり、錆びつかないのは、真実の「常識」だからこそなのです。それは誰しもが納得出来得る教えであり、頷ける教えであります。他人前や、世間の目ばかりを気にかけそのことに迎合する生き方は、偽の常識でしかありません。
 それは私可愛さの常識でしかないのです。
私たちが自分に執着することにより、見失っている真実の常識を知らせるために仏法はあるといっても過言ではありません。ちっぽけな思い込みの常識よりも大きな仏法という常識の中に自分を見つめ、自己の足でしっかり歩む人生であってほしいものですね。
 常識は本来自己に厳しいものなのです。そうして冷たいものなのかもしれません。しかしその中に自分を放り込んでこそ真実がみえてまいります。過ちばかりを犯している私たちに仏法 は「己勝手になるな」という諭しをいつも呼びかけであります。