印刷はこちらからどうぞ

 
     
                   感  動
 
四月になりますと、北国も若芽が吹きはじめ、心が沸きだってきます。以前でしたら季節が今以上に敏感に感じとられたものでした。今は、アスファルトのわずかな切れ目から、苦しそうに新芽が出始めるように、季節を感じとれるものが、少しずつなくなってきています。人間の、「より便利に、より快適に」が、そのようなものを、失わせていったのかもしれません。それと共に、季節に対する感動なども、すっかりと忘れてしまっているようです。二十四時間眠らない街をつくり、二十四時間働く人間をつくり、「時は金なり」と、忙しずくめの社会を形成しています。その中で「もっと豊かに」と蠢いている人間たち・・・・すべては豊かさのためにと。戦後の私たちの生活ぶりは、すべての無駄をなくし、特に時間を無駄にしないように、徹底してきました。ですから私たちの生活は「働いているか、遊んでいるか」のどちらかで、何もしないで、ボンヤリしていることは許されませんでした。それは、つまり遊ぶために働き、稼いでいるようなものです。経済の論理にすっぽりと覆われて、稼ぎ儲けるか、遊ぶかのどちらかになっています。今の遊びをみれば、ほとんどが、高価な遊びがほとんどです。今年は札幌で世界ノルディックスキー選手権大会が開催されましたが、冬のスポーツはお金がかかりますね。冬のオリンピックでも経済の貧しい国からの参加国はほとんどありません。一部の豊かな国が集まってやっているのが冬の大会のようです。「それらの国は雪がないから」、とかの問題ではないと思います。いつの間にか私たちの考え方も「お金のかかる遊びは楽しい」「お金の高い食べ物は美味しい」ということになってしまったのではないでしょうか。そんな考えが、より多く稼ぎ、儲けなければと考え、そしてより多く消費をしなければ活性化しないという経済の論理に振り回されているように見えます。この国の政策さえも、「消費をもっと上げねば」とか、「どうやって景気を回復させるか」ばかりに目が向いています。生活が経済化しているだけに、少しの不景気がやってきたときには弱いものです。「お金がなければ何もできない」となってしまうのです。お金は人間が使うものであるのに、金に使われて、やがては、くたびれ果てていく人間のなんと多いことか・・・・人間がこの世に生を受けた意義はどこにあるのでしょうか。お金は生きていく上での大切な道具でありましょう。しかし「お金が人生の意義だ」と思われている方はほとんどおられないと思います。「儲かるか、面白いか」だけの人生がどれだけ虚しいか、人間の本来的な喜びは感動ではなかったでしょうか。「感動をありがとう」などとスポーツの世界での横断幕などをよくみますが、仏教も感動の発見なのです。それは「気づき」と言っていいかもしれません。「儲かるか、面白い」かの価値観では、たとえ感動しても長続きしない薄っぺらな感動でしょう。「人間本来無一物」が仏教です。物を得て満ち足りようとして自由を得る西洋的な生き方と、欲を捨てることで、自由になろうとする東洋的な生き方とが、どのようにこれからの世界の潮流になるかは、これからの私たちの大きな課題のようです。捨ててこそ気づくこと、この感動こそが仏法に出会うということなのです。お金の世界では計り知れない言い難い感動に一緒に出会ってみませんか。