印刷はこちらからどうぞ

 
                     
           
管 理 社 会
 
息苦しく、何とも言えない締め付けられるような人生と感じておられる人々が近頃は多いように思われます。子供から、老人に至るまで、男女を問わずこの思いが蔓延しているような日本です。成果主義、実績主義の影響なのか、効率のため、いやな言葉で言えば儲け主義のため、表題(ひようだい)の管理社会は進んでいるようです。グローバルの旗の下に、世界に遅れないために、という目標のために、人間のそれぞれの思いなどは、消し去られています。自由と平等の旗印にして、戦後の日本は進んでまいりました。それが、格差は進み、地方の疲弊、安心できない老後社会、おかしな事件の続発など、不安感ばかりが目につきます。学校も社会もそれらを解決するために管理の強制が行われているようです。管理が強くなれば自由な考えは否定されがちですし、自由にしすぎますと、得手勝手ということになってしまいます。
 私達の世の中は考えれば考えるほど難しいモノですね。
 以前に神戸高塚高校で女子生徒が教師が閉めた校門に頭を挟まれて死亡するという事件がありました。高校の教師が始業時間に合わせて校門を閉めるということは、全国どこの高校でもされていることです。思い鉄扉を一気に閉めた教師はどんな気持ちだったのでしょう。
 教師は時間が来れば「一気にしめなければならない」、という思いになる可能性があります。
 なぜなら、一気に閉めなければ得をする子供と、損をする子ができるのです。時間が来てゆっくりと閉めていたら、間に合う子供と、間に合わない子供が出来ます。そのような事は平等ではないので、時間が来ますとなるべく早く閉めなければ「しめしがつかない」という思いだったようです。「あいまいさ」を許さない、「少々のことは目をつぶって」が少なくなってきているようです。腕時計を見ながら、チャイムと同時に鉄扉を押しきる、しかもそれは瞬間的に押し切らなければならないのです。「指導のあいまいさ」をなくすためにその行為は必要だったのです。どこかヘンだとは思いませんか。ある女子生徒の詩です
【今人間は暗い 家族で卓袱台を囲んで食事をした時代はどこに言ってしまったのでしょうか 言葉をかわせないじゃないですか 暗くなるまで夢中になって遊んでいる子供たちは どこに行ってしまったのでしょう 言葉をかわせないじゃないですか 夕涼みをして昼の疲れをいやしながら親子で話をしている光景は どこに行ってしまったのでしょう 言葉をかわせないじゃないですか 言葉をかわして人間はやさしくなれる 言葉をかわして人間は希望をふくらませる 言葉をかわして人間は成長する なのにみんなせかせかして 言葉をかわせないじゃないですか 今 人間は暗い】。曖昧さや、違いを認め合ってきた時代は人が優しかったと思います。仏教は違いを認めあう教えです。「青青色光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」(仏説阿弥陀経)それぞれがそれぞれの色を持ち光を放つ、無駄なモノは何一つないのです。画一的な金太郎飴のようなどこを切っても同じような人間などという世の中はごめん被りたいモノです。
 管理社会の効率優先よりも、もっと人間が人間らしく生きていられる世の中、(未だ実現はしていませんが)を目指すのが仏教徒の歩みです。管理も必要なところもあるでしょう。しかし何のための管理なのか、管理のための管理に見えて仕方がないのですが・・・・