けんちゃんの歎異抄
                   
                  (言いたい放題のコーナー)

序文

ひそかにこのごろを思えば宗祖親聖人の教えとはまったく程遠いところにわれわれはいるようじゃないかい。寺も、教団もそしてわれわれ僧侶と呼ばれている者も全く絶望的じゃないかい。今ころは、親鸞様も浄土でびっくりしているやら、嘆き悲しんでいることでしょうねぇ。それを小生も、考えましたよ。でも言っておきますが、これは小生に対する歎異抄ですよ。


第一章

近頃日本は不景気でみんな仕事もなく、自殺者は多いしおかしなことになってきていますよね。そんな中で寺の建物がやけに立派になっていますよ。これは念仏が繁盛しているのかと錯覚しているようだよね。こんなのそんなことではないんだよ。坊さんもすっかりお金ボケしているんじゃないかい。だいたいが゜政治家と坊さんは何でも有り余るほど所有しちゃいけないのですよ。捨てる大切さを説きながら何とあさましき姿でしょうねぇ。悪人ぶる悪人、善人ぶる悪人、悪人ぶる善人、使い分けの上手さよ。あんたはどれかな。たちが悪いノォ、それはわたしです。


第二章

お金について考えてみるぺか。よくもまぁ金儲けが好きだなあ。だから霊感商法などに引っかかるだよね。ちょっと考えりゃわかりそうなものなのに。ちょつぴり寂しいのと、お金に色気があるやつがだまされるんだぞ。だいたいお金儲けの話なんぞ、他人にするもんかね。自分だけしか決してしないと思うぞ。自分だったら他人など話すもんかね。でもやっぱお金はいいもんだナァ。すみません、ないからこんなことを書きました。小生のひがみ、ねたみでした。


第三章

お骨に振り回されている人たちは読んでみてくれ。よく「私が死んだあと誰がお骨の面倒をみてくれるんだ」と言って心配する人がおるぞ。だが何にも心配することはないんだ。いずれそんなものはわからんくなってしまうんだからな。何、寺で永代経を納めたら永久にお参りしてくれるって。うそだぞだまされるな。寺がつぶれたらどうなるのかね。お骨は今や寺の大切な収入源みたいなものなんだぞ。そりゃ粗末に扱うことは出来ないだろう。だが本山を筆頭としてお骨で収入を得ようとしているから気をつけろ。あの京都東山五条坂の美しい景観をぶっ壊して納骨堂を建てたのだからなぁ。最近の北山別院の不正事件だってこんなことが原因になっているんじゃないかな。そうは言っても小生のところもしっかりと納骨堂があります。すいません。北山別院の関係者はお家断絶、切腹を申し付けるぞ。


第四章

檀家ってなんだ。檀家管理ソフト何てものもあるぞ。檀家は管理したりするものか。檀家制度がどれほど真実性を壊してきたことかねぇ。葬式の多さを競い合う住職共、法事の忙しさを自慢しあう僧侶たちよ、恥ずかしくはないかい。何「それが何で悪いのかって」。己で己を傷つけているんだぞ。親鸞様は言っているぞ「御同朋、御同行」、「弟子一人も持たず」ってね。封建制の名残かどうかは知らんがね、恥を知らないんじゃないの。檀家と呼ぶのは止めましょう運動でもしないかい。同行、門徒などの方がずっといいと思いますよね。「うちの檀家は何軒かな」おっとつい癖が出てしまったぞ。はんかくさい事でした。


第五章

今流行りの言葉、差別について考えたんだ。あいも変わらず問題がちょくちょく起こっているが、なかなか大人にならないもんだよね。成熟しない教団ってことだよ。アホくさい差別語で中傷する人間よ、大人になろうや。何があったかは知らんがね、恥ずかしいことだぜ。自分で自分に唾しているようなものだぞ。わっしもどこかでひょっとしたら知らないうちに差別をしているかも知らんがねェ。気が付いたら誰か指摘してくれや。人間はどうやっても不完全この上ない動物なのだからなぁ。   


第六章

どこかの誰かは知らないけれど「あなたは教行信証を何度読んだか」などといって学問をしたことを誇る人がおるぞ。何度読んだからと言ったって念仏の本意を知っているんじゃろうかねぇ。そりゃたいしたもんだねぇとはおもいますよ。手をたたいて称賛いたしましょう。でもそれだけのことよ。気の毒千萬でありますよ。わかっているのかなぁ。よいか念仏はそのような傲慢な心を木っ端微塵に打ち砕くものなんですぞ。そんな人は念仏者じゃありません。単なる学者バカと言うのであります。ワシ・・・さっぱり勉強しておりまへんのや。


第七章

今時の連中はイベントとかボランテイァが好きなようじゃな。だが人間が生きていく上で大切なのは特別な日ではないぞ。震災か、大事件か、はたまた、大イベントのときに力を発揮するのもいいがのぉ、もっと日常にがんばってくれや。法事や、葬式のような脂っこいところばっかり張り切る僧もおるようじゃがのお、もっと日常の逮夜まいりなどこそ大切にしようじゃないか。なぜならそれこそ、個と個がぶつかりあえる、仏教の基本じゃないかのぉ。お釈迦さんのお経だって「舎利弗よ舎利弗よ」「佛告阿難」と個人名で呼びかけているんだぞ。お釈迦さんが「皆のものよ」なんぞとやったか。お経も個人への説法を周りが聞いているのじゃないか。みんなと一緒に何ぞ思っちゃねいけねえぞ。おまえ一人のことだべや。たのむぞえ。


第八章

最近無責任が横行しているようだぞ。自分の仕事のケリくらいは自分でつけれや。環境問題を騒ぎながら電気を煌々とつけているやつ、大型の自動車にのってガソリンを撒き散らしているやつ、森林伐採を訴えながら自分の寺には豪華絢爛な大量の材木を使い平然としているやつ、おいおい、恥を知ろうぜ、そんなんなら最初からあんまりそんな問題でえらそうにするなよ。もう少し謙虚になろうぜ。なに、こんなことを書いているお前が恥知らずだって。そのとおりでした。へ・へ・へ


第九章

想像ってしっているか。そうイマジネーションってやつだ。どうも今時の人間はこれが足らんぞ。先を読んだり、他人の心を傷つけないように少しは考えたらいいべや。情報ばっかりで判断して人間の持っている想像する力を失っているようだぞ。だから他人がどう思っているかだとか、関係ないような生き方しかしていないんだべや。いいかお釈迦さんはなぁ、他人の心を読む(想像力)の天才だったとワシは考えているんだ。対機説法、応病与薬などは見事なもんじゃないかね。一方通行の説法よりももっと応病の説法でなけりゃもう相手にされなくなるぞ。心を読めよ。わからんなりにもなぁ。


第十章

人間って同じ過ちを何度も繰り返す。どうしてなのか。だからいつまでも宗教があるかも知れんがね。人間がだいたい八十年くらいでそっくり入れ替わるからなのかとも思っていたら、イソップ物語を読んでいたら実はそんなことではないと考えられたんだ。イソップの寓話は実は経験に学べということなんだぞ。それも自分の経験じゃなくて他人の経験にも学べるということをいっているようなのじゃ。だからイソップが笑うのは自分の身のほどを知らぬやつを笑っているんじゃないか。なぜ自分のほどがわからないのか。それは経験を学ばないからなのじゃぞ。人の振り見てわが身を直せとか、(他山の石)とか言って先人は教えているんじゃぞ。少しは考えろよ。何言いたい放題な事言いやがってだって、言っているんじゃない,書いているんだぞ。正確には打っているんだぞ。正確に指摘したらいいべや。   
                     
            つづく 又こんどね。