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飢  餓
 
今、この地球上には、約六十三億の人々が暮らしています。そのうちの二十パーセントは先進国と言われる豊かな国に住んでいます。残りの八十パーセント、約五十億の人々はアジアやアフリカの貧しい開発途上国と言われる地域に住んでいます。貧しい国に住んでいる人々の方が圧倒的に多いのです。今、この五十億の人々が苦しんでいます。十一億の人々は食べ物を得ることも難しく、そのうち六億の人々は今日一日の食べ物も手に入らず、餓死寸前とも言われています。一年間では千五百万人の人々が、この貧しさが原因で死んでいくのです。しかも亡くなっていくのは、ほとんどが子供という事実です。幼い子供たちは小さく弱いのです。食事の内容も私達のように朝、昼、夕という三食ではありません。一日一食がやっと、しかも内容はご飯に塩をかけて食べる有様です。おかずはないのです。栄養状態は最低です。抵抗力がなく簡単に死んでしまいます。食糧危機が叫ばれておりますが、今世界には六十三億の人々の食べる食料は存在しているのです。食料が不足しているわけではありません。餓死する人々が多く出るのは、世界の食料の七十パーセントを二十パーセントの人々が食べてしまうのです。残りの三十パーセントを八十パーセントの人々が分け合っているのです。一部のひとびとが食べているから食料が行き渡らないのです。豊かな国の中でも日本人と、アメリカ人がもっともぜいたくな国と言われています。先進国の中でも、ヨーロッパは、日常の食事は以外と質素なようです。日本は食糧自給率が半分以下で、饑餓に苦しんでる国から輸入して食べ放題の生活をしています。何かおかしな事ですね。しかも食卓に出された食料のうち二十パーセントは残飯として捨てられているのです。家庭での食事ばかりでなく、学校給食の食べ残し、レストラン、ホテル、ファストフード、捨てられる食料の多さは、ちょっと想像力を働かせれば私達にも身に覚えがあるのではないでしょうか。私達はいつのまにか食べ物を粗末に扱っているようですね。かってこの日本もほんの数十年前までは貧しい国でした。貧しかったからこそ、一粒の米
野菜の切れっ端までも智慧を働かせ「お互い様」と、人々と肩を寄せ合い、大切にいただいたものでした。それが変わってしまったのでしょう。食べ物があふれ、恵まれた環境の中に暮らしていながら、そうした豊かさゆえに、見失ってしまったものの大きさを感じます。「いのち」「生きることの大切さ」「やさしさ」「おもいやり」、このようなものは貧しいからこそ、見えていたものてではなかったでしょうか。饑餓で苦しんでいる国の、子供たちが、兄弟、友達と一粒のお菓子を分け合っている姿は、何と心優しい、心豊かな姿でありましょう。夜遅くまで塾に通い、ファストフードの食べ物に食らいつき、インスタント食品を好む日本の子供たちが豊かなんでしょうか。貧しい国の子供たちの笑顔と、日本の子供たちの愛に飢えたような暗い表情は何なのでしょうか。人間の本当の幸せが何なのかを思い知らされます。仏教の「小欲知足」は、我慢とか、耐えるのではなく、人間の真実の喜びが何なのかを教えてくれるのです。自分だけの欲の満足では決して幸せを感じる事はできないのです。この年の瀬に「互いにもたれ合っている」、縁起の世界で生きている私達を見直しませんか。仏教の基本の考えです。