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                                 傷 あ と
 たたけば、ほこりが出る身とはよく言われますが、私達の一生のうちには、どうしても隠しておきたい事とか、他人様にはとても話をすることも出来ないと言うことがあると思います。
 「墓場まで持って行く」とか、言いまして、知りたいことも永遠の謎ということもあります。
 特に我が身の心の闇にはいつも蓋をしているようであります。他人に「知られたくない」「見られたくない」、そんな思いがいつしか、他人ばかりか我が身までも偽っているようです。そのうちに【私は何なのか】もわからなくなってしまいそうです。長崎での原爆被爆者福田須磨子さんは、師範学校の小使い室で被爆、家族は爆死します。この日から、 須磨子さんは病と共に生きるための戦いが始まります。ありとあらゆる手立てで生きる中、培われたものは人間不信だけだったといいます。被爆してすでに人間としての姿を失った人々の群れ、その中に入りながら山の方へのがれていく行列、両側の押しつぶされた家々から助けを求め聞こえてくる悲鳴、それを聞きながらも、崩れない行列、「それをどうすることも出来ず、行列に続く自分はどういう人間なのか」と、自分に問いかけます。 「許して、許して」と声にならない悲鳴を上げているだけの、自分でありました。そうして「あのとき、私はなぜ助けようとしなかったのか、女の私には柱一本どかすことも出来なかったとは思う。しかし、それをやってみようともしなかった自分を、私は許せない、助けようとしなかった自分を、人間としてゆるせない」と赤裸々な告白であります。二十三歳での体験です。長崎に帰ってみると父母が信頼していた人さえも他人のものを盗むような状況を見て、「人間のいやらしさ、汚さ」に投げやりな気持ちになり絶望感に引き込まれます。そんな人間不信もやがて、同じ被爆者たちの苦しみの声を聞き心が開かれていきます。「脱毛は進み河童そっくりになったが、鏡を割ろうとは思わなくなった。かえってどこまで醜く変貌するか見届けてやろうと思った」と、いいます。被爆後十年目に彼女は「ひとりごと」という詩を発表します。
【何もかも いやになりました 原子野に屹立する巨大な平和像 それはいい それはいい けど そのお金で何とかならなかったかしら ”石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 被爆後10年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です・】
ここまでも強くなれるものでしょうか。彼女はその後、五十二歳の一生を反原爆運動に身を捧げます。重い背負いきれない傷あとを五十二年の人生で見事なまでの克服と言えます。
 私達もそれぞれが重い傷あとを背負って生きています。傷の無い方はおられないと思います。
 誰もが福田さんのようには生きらるとは思いません。もちろん私も・・・・
 お寺の本堂は本当の私をさらけ出す場です。お葬式や法事をする場と思われている方が多いのですが仏法に私を聞いていく場です。私が仏法を聞くのではなく、私を仏法に聞いていくのです。外側の格好はともかく、心を開いて本堂には座っていただきたいと思います。悲しみも苦しみも、喜びも、そうして重い重い傷あとも阿弥陀様が、共に泣き共に苦しみ、共に引き受けてくださるのが浄土真宗のみ教えです。八月の広島、長崎に寄せて思うことであります。