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子 供 心
 
先住民族、又は現代文明の及ばない地域を未開、卑俗、または野蛮な場所として軽蔑な面持ちで私たちは接していないでしょうか。そのような人々に文明を押しつけ便利で効率の良いものを教え導くのが正しいことと思い上がってはいないでしょうか。
 ヨーロッパでもキリスト教の宣教師たちが先兵となり豊かな森を切り開き、文明の力により森が消えていきました。それは今の中東情勢を見ますと、同じことが起こっているように見えます。あの長閑なアラビアンナイト、「千夜一夜物語」を生み出した国を石油資源欲しさに文明国がメチャメチャにしているように思えるのです。これは、子供心と同じように思えます。
 子供は無邪気でわがままで、野蛮な存在ともいえるものです。その子供の未開、野蛮な存在を、躾と称して大人の価値観を押しつけていくのが今の教育のようにも思えます。
 これは子供にとりましては一種の虐待なのかもしれませんね。それは元々持っていた子供の原始の心を押しつぶすことになります。それら捨てることを強要された子供たちは豊かになったか、貧しくなったかどちらなのでしょう。私たちは文明病という病に冒されているかもしれません。子供の頃に木に登り、豊かな自然を満喫し、雲を見てはその形が人の顔になり、花になり動物に見える感性はすっかりと失われてしまったようです。
 子供の頃動物や自然界と会話をし、心通わせられたことをすっかりと忘れてしまっています。島崎藤村の言葉に木が語る場面があります。「人間は一生に二度ほど私たちの方に来る。
 一度は少年の時、今一度は年をとってからだ」と。子供の時に見えていた風景と、大人になって見た風景は確かに違って見えるのです。進歩なのか退歩なのか、それが大人になると言うことなのでしょうか。人生は気づかないうちに過ぎ去っていきます。私たちは将来、来るべき未来に期待をし、思いを馳せながら生きている人が圧倒的大多数だと思います。
 かって長寿社会の象徴だった、きんさん・ぎんさん姉妹も「今テレビに出るのは将来困らないように」と言うくらいなのですから・・・確かに私たちは明日のために良く働き、貯蓄をし将来に役立てようと考えています。しかし悲しいことにお金が貯まり、夢を実現しようとした時には欲しいものが変わっていたり無くなったりします。確かに将来は大切でしょう。
 しかしそれと代わりに今を失っているように思えるのです。「今を生きる」ということが蔑ろにされては何の人生なのでしょうか。必要以上にモノを求め金を貯めそれで苦しみ悩み続きの人生を送っている方もいますね。勿論浪費をすすめているわけではありません。
 しかし本当に大切なモノが何かをすっかりと忘れてしまっています。柔らかな発想、疑問、子供と接しますとそれら基本的なものを思い出させてくれます。経験とか知識がそれらを覆い隠してしまうのです。かって誰もが持っていた豊かな子供心、これは仏教の心と相通ずる世界であります。お釈迦様の教え一つ一つは決して理屈ではないのです。二五〇〇年もの長い時を経て今私たちに伝わっているのは老若男女、立場、民族を乗り越えているからなのです。それは無垢な子供心のような教えなのです。そんな心に私たちも思いを馳せつつ気づいたりしませんか。本当の安らかな心を求めて・・・・