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 言  葉
「たくみ」という言葉があります。名工の「匠さ、巧み」とか、昔気質の職人の名匠とかの表現によく用いられています。見事な技と長年の修練によって受け継がれ、伝承されていく良い言葉として使われます。「手際よく優れている様」(広辞苑」であり生身の体を用いて優れているのです。この体で用いられる「巧みさ」が言葉であるとどうでしょうか。「オレオレ詐欺」「物を売りつける」「宗教勧誘」、「言葉巧みに」為されることが今は多いようですね。
 巧みでも「言葉巧み」は良い意味では使われないようですね。言葉というのは、本来人間と人間をつなぎ、伝え合う伝達手段として大切にしてきたものでしょう。しかし今ほど言葉が蔑ろにされている時代はなかったように思えるのです。「言葉は信じずに足らない」という方向に進んでいるようです。言葉が少しずつ上手に使えなくなっています。短く縮めた言葉ですましてしまう、うざい、むかつく、関係ねえ、こんな言葉で自分を表現し伝えようとします。
 今、国会でも安保法制の論議が盛んにされています。この論議もさっぱりわからないですね。 質問する方も答える側も、自分の持論はとうとうと何時間でも述べますが、聞くことはお粗末そのものです。社会は豊かになりましたが、言葉はむしろ貧しくなっています。
 ブログ、ツイッター、メール、ネット社会の普及もこの事に輪をかけます。これらは会話ではなく、言いたい放題の一方通行です。目の前に存在しない他者に対しての言葉が乱暴になるのは無理ないことなのかもしれませんね。他者がいないのです。伝えているのが誰であるのかも実感としてはないのです。豊かな社会、文明の発達が生み出したのは、他者がいなくとも「ひとりで生きていける」社会を作り出していったのです。今の日本の問題は、高齢化、少子化、引きこもり、オタク現象、ホームレス、未婚、離別どれもが「一人で生きている」社会の姿です。コンビニ、スーパー、ファストフードの店はどこもマニュアル化された言葉です。
 生身の人間の言葉では無く、ロボットと話をしているようなものです。一方通行で独り言のようにさえ聞こえます。面倒くささがなくなり、これが「わずらわしくない」住みよい社会と思っているのでしょうか。自らが自らの言葉として発信していくことは大切なことでしょう。 しかし発信することばかりが強調され、受信力が衰えているように思えるのです。
 他者の発する言葉が言葉でなく、雑音のような聞き方をしているようです。良寛和尚は発信するだけの人は「自ら称して有識と為す」(自らが偉いと思っている)と述べられています。
 今エライ人が多いですね。持論はとうとうと述べられ他論は聞きたくもないのでしょうね。 コミニュケーションとか、絆と言いなが勝手なものです。情報時代と言われながら一方的に送られてきますが、その中に私はいないのです。釈尊の心、仏教の心は相手の心をしっかりと受け止めるところから出発します。慈悲というのも、悲しみ苦しみを共有することが出発点になります。その中には言葉にもならないこともありますし、ただ寄り添うことしかできないこともあるでしょう。他者との共有の立場になるということが傲慢なのかもしれません。
 しかし同じになり自分の姿を知ってこそ争いや戦争や様々な問題の解決の糸口があると考えますが・・・・