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                 貢 献・ 奉 仕

 ボランティア、社会奉仕、「世のため、人のため」、このような社会貢献をされておられる方は、最近大変増えてきているようです。共に同時代を生きているのですから、いくらかの貢献であってもそれが貢献された方の喜びでもありましょう。どのような人も、他者に尽くしたい、喜ばれたいという思いは持っていると思います。もっともこのような奉仕とか、貢献はあくまでも「私ごと」であり、内密にされた方が良いと思います。ささやかな貢献を「私がやってったんだ」などと大きな声で主張するのは誠に見苦しい下品な気がいたしますが・・・・
 欧米諸国では「他への奉仕は、内密にやれ」とか「何かの献金は他の人に見つからないようにしなさい」と子供を躾るようです。外国の教会での基金集めには大きな袋が教会内に回ってきます。人々はその袋の中に他人には見えないように手を突っ込んで、お金をいれていきます。それが自然に行われていきます。寄付の金額、芳名が大きくこれ見よがしに張り出される日本とのしきたりの違いなのでしょうか。それとも文化の違いか、歴史の違いか、どちらが本当の貢献・奉仕でしょうか。作家の曾野綾子さんの発言に「同情して援助するのに、一番やさしいことはお金をだすことだ」とあります。次にやさしいのはものを出すこと、難しいのは労力を提供することだそうです。労力提供は自分のしたいことを犠牲にして時間とエネルギーを提供し、しかも見返りは望まないことです。労力を提供することが助ける人の喜びではなく提供する側の喜びとしなければなりません。これがほんとうの、貢献とか奉仕、そしてボランティアということでしょう。そのような事を思いますと自分の奉仕とか貢献は何なのか考えさせられてしまいます。
 お金を出すことがいけないとは思いません。しかしそれで事足りと思うケチな根性の自分自身を思い知らされます。お金を出したから「いい」と思う気持ちの浅ましさを感じます。
 今の自分にはお金しか出すことが出来ない。しかも自分の生活はしっかりと守るだけ守りながらその残った小遣いの一部分を義援金に差し出すのですから、「お恥ずかしいことですが」という思いで出すべきでしょう。物も同じ事が言えます。今自分が大切にしている物を差し出すでしょうか。いやいやほとんどの方々は、不要品と称する使い古している物か、又はタンスに長らく眠っているタンス整理のような感覚で品物を出されてはいないでしょうか。日本の国際貢献においても「こんなにお金をだしたのだから・・・」という意見もありますが、そのようなこともその気持ちそのものが卑しくはなっていないでしょうか。貢献・奉仕などはそのような次元で論義されるようなものではないと思いますが・・・ そんな傲慢さは、誰のことでもありません。私自身の中にある傲慢さであります。情けない貧弱な貢献・奉仕の心しか持ちきれない私。念仏のみ教えは、そんな自分自身の「我愛・我執」の姿をしっかりと知らされていくということです。それと同時に「そのお粗末な私が」大きな阿弥陀様の大悲の中に抱かれれていることを知らされる事、それを「信心」と浄土真宗では言うのであります。貢献とか奉仕とかをされるときにはこんなことを考えてくれたらなぁと思います。「きびしさと、安らぎ」この二面性を持っているのが、念仏者としてのたしなみといわれるものではでないでしょうか。