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空  気
 
以前、K・Yという言葉が流行しました。これは(空気が読めない)ということです。その場の雰囲気を感じ取れないとか、少し鈍感なことを意味します。ちょっと変わり者とも見られることが多いようです。多数の人が感じとっていることを感じとれないと言うことでしょうか。
 しかしすべての人がK・Yでなくなった社会は息苦しいと思います。誰もが風見鶏、付和雷同、長いものに巻かれるような社会になるからです。その場の雰囲気と異なる感じ方をしていても、それを表には出さず雰囲気というかその場の空気に合わせてしまいます。それでなければ結局K・Y と言われ浮いたような存在になってしまいます。今の日本はこのような空気がそこら中に漂っています。今私たちが感じている息苦しさはこれが原因となっていませんでしょうか。誰もが小利口となり、失敗を恐れ又、それを許さないという状況が目につきます。小さな失敗さえも許されない息が詰まるような余裕のなさがありますね。「失敗から学ぶ」とか「間違いから進歩する」などとは言ってられないのでしょう。セーフティネット(失敗してもやり直しが出来る社会)とは言いますが現実は失敗するともう取り返しがつかないようです。しかし何人かに一人はK・Yの人はいるのです。その人はいつも団体行動からは置いてけぼりにされ、除外され、相手にされなくなります。もちろん団体行動で誰もがK・Yでは困ります。統制・統一がとれませんし、バラバラになってしまいます。けつして空気を読む能力を否定するつもりはありません。人間は誰もがひ弱い動物です。生き延びるために共同体を作り、団体行動し、自分たちを守ってきました。弱肉強食のこの地球上で道具を造り、火を発見し、今では人間は天敵と呼ばれるものは存在しなくなりました。特に日本のような島国ではお互いが助け合い空気を読み合って成立している世界なのかもしれません。そのために異端を排するのは極端です。凶悪犯罪を為した人間を徹底的に叩き、内閣支持率が一方的に高くなったり低くなったりする、流されやすい状況が特に強まっています。空気を読み流れやすいのが私たちのようですね。この空気の読めない人を「常識なし」というのかもしれません。でもちょっと待って下さい、お釈迦様も、親鸞様も仏教で開祖と呼ばれる人たちはほとんどがこの空気を読めなかった人だったように思えるのです。今は誰もが偉人とか、立派な人と言うかもしれませんが、それは時代が認めたからであって、もし同時代に生きていたなら、弾圧し、変人と私たちは呼んだかもしれないのです。仏教はそんな私に「そんなことでいいのか?」といつも問いを投げかけます。合わせるのに汲々として思考停止状態に陥っている私に問うのです。こざかしい空気を読むことよりも読めない人が意外と真実に目を開かせてくれることがあるのです。モンゴルの遊牧民は数百匹の羊の群れに数匹のヤギを放ちます。羊は空気を読む力がとても強く同一行動をとります。そのために変化に対応が出来ません。草を食べ尽くしてもその場にたちつくしてしまいます。しかしヤギは勝手に草のあるところに移動します。そのヤギに羊もついて行き飢えや寒さからヤギが守ってくれるのです。仏教は固定的な観念や「わかったつもり」「空気を読むことに汲々」している私に「あなたはあなたの人生をしっかりと生きて下さい」と呼びかけています。