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 今(9/15)政治の世界では次のリーダーを決める選挙が行われようとしています。誰もが言うことは、景気を良くして、元気のある日本を再生しようと言っています。言い換えれば景気を良くすることは金回りを良くするということでしょう。国民総生産を上げて、誇りうる国家を創ろうというかけ声もあります。お金を求め続ける社会は人間の心よりお金に値打ちがあるからなのでしょうね。しかしそんな社会は心貧しき社会であります。なぜならどんなにお金を儲けてもキリのない、「もっと、もっと、まだまだ」であり、食べても食べても飢えに苦しむ餓鬼道の世界そのものなのです。国民総生産を国家目標にするのはどうなのでしょう。多くのゴミを創り出しその費用を処理するお金も国民総生産に入りますし、危険が多い建物を修復するのも入りますし、世の中が危険になってきますとセコムとか、監視カメラをつけたりするのもどれもが総生産に入ります。生活する人間にとっていやなことさえも総生産にとりましてはプラスになっていきます。国民総生産信仰は国民の幸福とは矛盾していることがあります。今東北では震災への復興の景気が期待されていますが、多くの犠牲を伴った景気の浮揚を喜べるのでしょうか。お金のみを求めていく社会は健全ではありません。多くの人の不安、不幸が景気の上昇につながるのは健康ではありません。確かに日本の景気は朝鮮戦争特需やベトナム戦争の特需で潤ったのは間違いのないことです。他国の国民のいのちと引き替えに日本が戦後復興をいち早くとげたのです。今も弱い国から強い国へ富が流れています。そこに共にという考えは見えてきません。不安や不信感に満ちた社会はお金が価値のすべてになっていくのかもしれませんね。宮沢賢治のなかに「なめとこ山のくま」という作品があります。この物語は端的に次のような話です。【小十郎という猟師がおりまして彼はいつも、くまを撃って肝を取り出し町で売るのを生業としていました。これまでにもたくさんの、くまのいのちを奪ってきました。しかし彼はくまを撃った後、必ず「くま、おれはてまえをにくくて殺したのではないんだぞ。・・・このつぎはくまには生まれてくるなよ」といって悼むのでした。ある日もくまをめがけて鉄砲を撃っていましたが、そのくまは小十郎をめがけて突進してきました。小十郎は目を回してまわりがまっさをになりました。くまは言うのです。「おお小十郎、おまえを殺すつもりはなかった」と。くまたちは小十郎の回りに集まってきて何日も動かずに寄り添い彼の死を悼むという物語です】。宮沢賢治の作品はどれもが奥深く考えさせられます。賢治が深く仏教を根っこにしていたからなのかもしれません。人間と動物と植物そして自然界が同じ線上に描かれます。
 人間の及ばない雄大さに気づかせてくれます。今の私達は宇宙へ人間を飛ばし遠いところへも時間かけずに行くことが出来、夜も眠らない街を作り、世界中の食べ物をいつでも口にすることが出来るようになりました。しかし昨年の震災は人間がすべての頂点にあるような思いが打ち破られたのではないでしょうか。しかし今でも思い上がったままの人は少なくないと思います。私達もまた再び同じ過ちを繰り返すかもしれません。だからこそ仏教の山川草木悉有仏性(あらゆるものが仏となることが出来る)を心に止めたいと思います。
 宮沢賢治の「なめとこ山のくま」は、あらゆるものとの共生の大切さを教えてくれています。