まちがい・あやまる 

衆議院選挙も終わり、時代の移り変わりの激しさを感じます。年金問題、イラク問題、高齢化そして少子化社会、政治が果たすべき役割は大変大きなものがあります。
 この度の選挙はマニフェスト選挙と言われました。この言葉は昔、『共産党宣言』の事でしたが今では政権公約という風に使われているようです。政権を得たら『このような事を実行する』という約束です。各政党がいろいろなマニフェストを出されましたが選挙が終われば・・・・・とならないように願うばかりです。いままでどれだけ約束を反古にされたことか、それは政治ばかりでなく、身近にもそして自分自身にも、うそをつかれたり、ついたり、「うそいつわりの世の中に、さて死ぬるばかりはまことなり」(一休)であります。よく人を騙す動物として狐が出てまいります。イソップ物語でも日本でもあまり狐はよく思われていないようですね。狐は美女に化けたり、木の葉を小判に変えたり人にうそばかりをついて、騙します。しかしこの物語の意味するところは狐のずる賢さだけなのでしょうか。逆な見方をすれば狐のうそを見抜けない、人間の欲望を笑っているように思えるのです。色ぼけ、欲ぼけこんな人間だからこそ騙す狐がいるのです。
 人間がこの欲望の虜になってしまえば狐にしてみますとしめたものです。狐はこれをどのようにでも化かすことが出来ます。金でも地位でも取り上げることはわけもなくやってしまいます。人を騙し、惑わし自分だけが得をしようと思う人間がいる限りいつの世でもどこにでもこの狐は絶えることはありません。
 【人間をだます狐がおるのではない だまされる人間がおるだけだ】(曾我量深)
 欲望をかかえた自分自身の本当に気づく大切さを思います。(我が思い)がどんな実体を持っているのか人間は自分自身では知ることは出来ないのです。反省などといいましてもそれは自分には甘い点数の反省でしかないのです。このことを仏教では無明と言います。
 鏡は自分自身を映し出します。皆様は鏡を見る時どうすれば美しくなるかを考えていることだと思います。しかし鏡を見るときにはまず最初に自分自身の欠点や短所を発見するためにあるということを忘れてはならないと思うのです。今の私たちは人間を良い人悪い人に分けてしまいがちです。良い人とは私に都合のいいことを言ってくれる人、逆に自分の欠点や醜い面を指摘してくれる人は悪い人なのです。しかし人間は良い悪いのではなく、弱い人しかいないのではないのでしょうか。誰だって他人から褒められたいし、誘惑に弱く、お金も名誉も欲しいのです。約束も破らなければならないこともあるでしょう。でも私は約束を破ったことを責めようとは思いません。そのことにあやまらない事に怒りを感じるのです。「ごめんなさい」が言えない方が多くなってきています。意地か名誉か誇りかわかりませんが地位名誉のある方に限って「ごめんなさい」とあやまれる方が少なく思えます。 もっともあやまっても許してくれない世間ですが・・・・ 
 『迷える者は道を問わず』という言葉がありますが、間違いだらけの私が「間違った、ごめんなさい」といえる自分でありたいものですね。