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水俣から学ぶ

公害の原点と言われる水俣病は未だ多くの患者が苦しんでいます。地域も水俣ばかりでなく、食物連鎖の公害で近隣の多くの地域に被害がおよんでいます。水俣病の語り部であり自身も病に体中を切り刻まれるような痛みにありながら語り続け五年前年に逝去された杉本栄子さんの言葉です。
【私の村は、じいちゃんばあちゃんがとても多い村だったんですよ。120軒の戸数の中で網元が4軒ございますが、その一軒が私のうちです。そんないい村だったにもかかわらず、魚が死に鳥が死に犬猫が死んだ中で、じいちゃんばあちゃんの姿が見えなくなった。誰も病院に行かなかったんですね。そんな時ですね、私の母がこのごろどうもご飯を食う箸が重たいということで、手づかみでご飯を食べるようになりました。夕方帰ってきてみたら、母の姿が見えない。「母ちゃん!」って叫んでも返事もしない。母のところに行ってみたらブルブルブルブルふるえて、本当にびっくりするような顔をしていました。「マンガン病って何だろうな」って聞きに行ったとき、それを説明してくれる人もなく、とにかく「親戚の恥さらしが。迷惑だからこの村を出て行け」と言ったのは親戚の人たちでした。父が言うには「いじめる人は変えられんとばい。自分が変わって生きていかんば、人がいちいち言うのを腹を立てるようじゃ、一丁前じゃなかばい」と言ってくれて私を育ててくれましたが、人様より早く死ぬのならば、いじめ返しをして死にたかったですと思っておりました。。その中で「いじめ返しをしたい」という私の言葉には父はとても怒りました。「人として生まれたからには、やっていいこととやってならないことがあるんだ」。それは、考えもしない、言ってもいないのに、「この村から出て行け」とか、崖から突き落とされたり、お米も売ってくれなかったりする中で、「そんなことをされて辛かばってん、されたことを他の人にもすれば、他の人も自分たちと同じように辛かじゃなかろうか。それならば自分たちがこらえて、いじめ返しをしちゃならん。人としてやってならないことはそんなことだ」と。いじめ返しをしなかったことが私の宝物になっています。】と。
 遺言は【苦しゅうして苦しゅうして、もう全部許すことにした。チッソも、病人をさげすんだ人々も全部許す。人を恨むことはやめた。このつらい病気は誰にも病ませたくない。全部私達が荷っていく】と。差別に苦しみ、病に痛められた栄子さんのこの言葉は何なのでしょう。
 水俣の作家、石牟礼道子さんは栄子さんは菩薩様になられたと言います。あらゆる人々の罪を背負って許し、そして死を迎えるのは仏様の言葉でありましょう。女漁師であり学校へはほとんど行かず、哲学書一冊読まなかった人です。ただ、ただ、父親から受け継いだ言葉を守り続けたといってもいいでしょう。水俣病は私が引き受けたと逝った栄子さん、大きな大きなこれ以上の慈悲心があるでしょうか。昨年の大震災で亡くなられた方々からも私たちは同じ言葉を投げかけられているような気がします。【津波や地震は私達が引き受けた】と。だからこそ残った私達はそれらの人々を忘れてはならないと思います。どんなに時が流れても私達の記憶からこれらの人々や場所を消してはらないのです。亡くなった方々からの声があなたには聞こえますか。だからこそ今ある生をいのちを、軽んじても軽んじられてもけっしてならないのです。