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未来への不安

以前にも増して、未来への不安が大きくなっています。便利で豊かに本当になっているのかどうなのか、見えては来ません。
お金もマネーと呼ばれお金が物と交換するというよりは、単なる儲けの道具になりました。
単なる博打のチップみたいなものですね。
 人間の欲望には限界がなく、どこまでも拡大していきます。技術の進歩、経済の発展、人間の幸福が進むことを私達は信じ切っていました。政治も経済もそのためには何でもしてきたのでした。その事を私達はいつまでも続く善として捉えてきました。
 二度も原爆を落とされ、大きな原発事故を起こしながら、それでもなお原子力の平和利用を推し進めようとするのもこの信念からなのでしょう。その事を選択しているのは他ならぬ「私」なのです。アベノミクスと言われる経済政策、景気の上昇、成長がこれからも見込めるのか、どうなのか、わかりません。でも以前よりは不安感が進んでいるように思えるのです。 
 それは、人間の欲望満足を中心に置くことを誰しも、何気なく不安を感じていると思います。
 問われるのはそのような、いつも欲望の満足を求める私の根っこでないでしょうか。
 今日の日本の経済規模、暮らしは百年前と比較しますと飛躍的なものでしょう。
 しかしそれに比例して、私達の、生活の安心、満足感、幸福感は上昇しているでしょうか。 経済成長が逆に不安感を増しているところもありますね。非正規雇用、富裕、貧困、高齢者、若年層、人と人とが分断され、立場立場で考えも固定化され複雑な多様な、互いにふれ合うことが出来ない時代のようです。これも大きな不安要素です。
 高度な社会で生きる煩雑さ、わかりにくさもありますね。今まで私達が進歩と思ってきたものが、実は進歩ではなかったという地点に気がついてきたのかもしれませんね。コンピューターやネットワークの発達が、数千年かけて磨き上げられた言葉を奪い、言葉の代わりに、映像や音の情報が多くなりました。
 話し言葉はどんどん失われていっているようです。
 世界三位の経済大国でありながら、私達の生き方、考え方も変わってしまったのかもしれませんね。当座の消費に振り回され、つつましくとも老後に備えた時代は遠くなってしまい(今)を享楽する生き方に変わったのかも知れませんね。貯蓄のない世帯が増えているのもこんなことなのかもしれません。
 私達は自己の欲望を肥大させ、社会のための負担を嫌います。未来への不安はこんなところからきています。私達は人間の幸福度を真剣に考えなければなりません。未来の世代に対して勝手に社会を衰退させる権利はありません。今のような日本を造ってきたのは「私」に他ならないのです。私の「欲望」との折り合いをつけられないのが今の日本なのです。
「今の道俗 己が分を思量せよ」(自分の分限を知り、してよいこと、してはならないことを、見定めること)という親鸞聖人の言葉が大事に思います。この分を知らないところに人間の傲慢や、強欲さが露出され今の日本の諸問題があるようです。人間の欲望を問い、社会の有り様を問い、将来世代に何を残すべきかを仏法に問い続けたいものです。