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  み す ゞ
 先日、札幌で金子みすゞ展が開かれていました。大変な盛況でありまして、そっと目頭を押さえている方や、詩の前で立ちすくんでいる方や、生誕百年を越えても、なお多くの事を、みすゞさんは私達に多くのものを与えているようです。今の日本は、経済とか、金儲けとか、凶悪犯罪とか、暗い話題ばかりが先行していますが、「まだまだ捨てたモノではないゾ」という気持ちになってきます。相田みつお、星野富弘さん等の詩や絵もベストセラーになっているように、こんなギスギスしているからこそ豊かな感受性に出会うとその眼差しの鋭さに圧倒されてしまいます。私達が子供の頃に持っていて大人になってすっかり忘れてしまったことを、みすゞさんの詩は思い出させてくれるのです。年齢を重ねるほどに、何でも「当たり前」になり、
「そんなの常識さ」と軽くかたづけてしまうことが何と多いことか・・・・・・
 子供は好奇心が旺盛で何でも知りたい、聞きたい事が多いものです。それが大人になるにつれ、「恥ずかしい」「自分を良く見せたい」思いから、知ったフリを始めそのままで馬齢を積み重ねてやがて「仕方がない」で終わってしまっているのではないか?とみすゞさんに問われているようです。
             不思議
  私は不思議でたまらない 黒い雲からふる雨が 銀にひかっていることが
  私は不思議でたまらない 青い桑の葉たべてゐる 蚕が白くなることが
  私は不思議でたまらない たれもいぢらぬ夕顔が ひとりでぱらりと開くのが
  私は不思議でたまらない 誰に聞いても笑ってて あたりまへだ、といふことが
 仏法の「ブ」の字、念仏の「ネ」の字もありません。しかしこれこそが仏法です、念仏です。
「どうして」と思う気持ちをいつか忘れ何でも当たり前の常識にしてしまう私の思いを打ち砕かれる思いです。しかもたまらなく優しさの眼差しで迫ってまいります。子供っぽいとか、青臭いとか、大人はかたづけてしまいますが、言葉は簡単でもそんな批判などはとっくに乗り越えているのです。子供の頃は大きな声で笑い、屈託のない笑顔の素敵な人が年齢と共に笑顔を失い、暗い表情に代わり、他人を見下したり、人間関係が築けなかったり、感受性が鈍感になったりしてしまいます。そんなつまらない常識から解放されることが、どれだけ私の人生を豊かにしてくれるでしょうか。みすゞさんは二十六歳で亡くなっています。家庭的にも決して恵まれているとは言えません。しかしあらゆるものにたいする眼差しの確かさ、優しさはどこから生まれてくるのでしょうか。この時代に比較すると今は何でもお金で買えないモノはありません。子供にブランド品を持たせ、ローティン雑誌がそれを煽り、親が懸命にお金のために働く、こんな異様な光景が当たり前と考える大人たち、「人間の責任、義務はそんなものではないよ」と、みすゞは謳います。教育問題も、子供の問題と言うより感性を見失ってしまった大人への、みすゞさんの警鐘ではないでしょうか。子供たちは、今も昔も同じように向上心も好奇心も持っているのです。大人がそれを奪い取らなければ・・・・・