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 道は近きに・・・
 
私たちは理想の道を遠くに求めがちです。時間的にも、空間的にもはるか彼方にそれは「ある」と思っていませんでしょうか。一生涯をそのような事を考え続け結局は苦労に苦労を重ね「むなしかった」で終わってしまっていないでしょうか。なぜに人は遠きに幸せを求めるのでしょうか。おそらくそれは「夢を見る」ということなのかもしれません。夢を求めるようなもので、叶うということはなかなかありません。たとえそれが叶ったとしても、再び遠くを目指して歩き出すでしょう。はるかな目標を目指し、高遠な理想を掲げるのは尊い事だとはおもいます。しかしそのために足下を見失えばつまずいて転んでしまいます。メーテルリンクの書いた「青い鳥」もそのことを言っているようです。「幸福」の青い鳥を探し求め森の中をさまよい続け見つからず、家に帰って我が家のかごの中に「青い鳥」を見つけるチルチル・ミチルの話でしたね。「幸福」は身近にある、ただ人はそのことに気づかないということでしょうか。「幸福」は何かどこか見知らぬ遠いところにあって今の私は「不幸」と思っていないでしょうか。いや不幸と言うより、「こんなものでない」と考えていないでしょうか。見知らぬ「幸福」を徒労のように「まだまだ、もっともっと」と探し続けるのが私たちのようです。このことが私たちをいつまでも幸福感を得られない原因となっているように思えます。「幸福」は「ある」ものではなく幸福に「する」ものなのです。どんな状況であっても幸福は自らが感じとり、作り出していくものであります。幸福を外へ外へと求め、結局見失い幸福になれないのです。幸福を遠くに求めてさまよい「ああでもない、こうでもない」と愚痴をこぼし「不幸」ずくめの人生を送り、進めば進むほど道は多岐に別れ途方にくれるばかりです。遠くに求めてばかりでは何も得られないのかもしれませんね。それよりも未来よりも現在、遠くよりも近くを見なければならないのです。仏道も同じなのかもしれません。仏教という高遠な理想を掲げ遙かな道を一歩ずつ歩み、厳しさに耐えていかねばならないと考えておられる方もいるでしょう。しかし仏道は近くにあるのです。日常の中にあるのです。普段というのが大事なのです。幸福を感じ取れない、いつも自分を不幸の中に置いておく、その方が楽なのかもしれませんね。長寿になり、便利になり感じ取れない自らの感性こそが不幸だと思うのです。見ていながら見えない、聞いていながら聞こえない、「何のために生き」「いかに生きるか」という人生の究極の基本さえも見失っていないでしょうか。自分の足下から見つめ直す事が人間にも、そして今の日本にも求められています。仏道の幸福はそのようなものであります。戦後今日よりも明日、未来に私たちは夢を求め生きてきました。高度経済成長の時代は次から次へ夢が叶った時代だったかもしれません。しかしそのことが果たして幸福になったといえるでしょうか。豊かな自然は失われ、家族、地域は壊れ、人は誰もがお金を求め「金儲けの何が悪い」と言われ言い返せない私だったのではありませんか。しかしこのようにしたのは「私」だったことを忘れてはなりません。どこかおかしくありませんか。今年の反省も踏まえつつ身近なところをまだまだ見ていかねばならないと思いますが・・・・・