も の さ し



                つもった雪
         上の行き  さむかろな つめたい月がさしていて
         下の雪 重かろな 何百人ものせていて
          中の雪 さみしかろな 空も地面(じべた)もみえないで
上の詩は山口県の童謡詩人金子みすゞさんが残されたものです。今ちょつとした、みすゞブームのようですがその感性と共に私たちに感動を与えるのは、立場を変えた見方をされているからだと思うのです。この詩でも、自らが自らの目を通しながらも、雪の心に思いを立たせています。他の詩においても、それが魚であったり、鈴であったり、小鳥であったり、それらの他のいのちに対するいつくしむ思いを、感じるのです。それは私たちが戦後の物質文化の中で失ってきたものなのかもしれません。私たちは戦後貧乏からの脱出、そのための教育受験戦争、そして名誉を争う、そのために疲れ果てているようであります。それまでして家族のためと、必死になって働きながらも行き着いた先が、バブル崩壊、不況、リストラ、就職難でありました。そして家庭崩壊、離婚、自殺者急増というような現実です。そうしながらも勝手な人権(本来は重い責任が伴う)を振り回し『私は正しい、他が悪い』と言い訳は巧みになり、他を非難することにあくせくしていることばかりです。どうも私たちは自分をものさしとして考えてしまうようです。あるお寺の住職が聾学校の夏季合宿に参加いたしました。子供達と一緒にテントに泊まり一夜を過ごしました。朝食の席で学校の職員の方が、テントの横は川が流れており睡眠が妨げられたのではないかと心配して『住職、よく寝られましたか』と尋ねました。住職は『いやそんなことはありません。それよりも川のせせらぎの音が心地よくぐっすり寝れました』とわらいながら答えました。手話でその会話を見ていた学校の耳の不自由な生徒がポツンと言いました。『そのせせらぎの音を一度でいいから聞いてみたい』その住職はその後『あのときほど自分の粗末さを感じたことはない』と述懐されていたということです。どうでしょうか、えてして私もよく犯しているような失敗です。人は自分のモノサシでしかはかれないもののようです。悪意はなくても知らずに人を傷つけていることも多々あるようです。
正月に年賀状などを貰うのはうれしいものですが、近ごろはコンピューターなど自作で家族の写真などをいただくことがよくあります。『元気でやっているなぁ』と思いながらも、もしこの年賀状を子供を亡くされた方が受け取ったり、家庭が崩壊された方が受け取ったりしたらどんな思いになるのか、考えますとなんとも言いようがありません。どんなに気をつけていても他を傷つけ続けている私を思い知らされます。これの根本原因を造っているものこそが《我執》というものさしです。しかもこの我執はなくなりません。しかしこのものさしを持っている《私》を知らされることによって、他のいのちとの共感を持つことができるのではないでしょうか。それは《お粗末、お恥ずかしい》私の発見です。仏法聴聞はまさにこの世界なのです。