『ものしりがお

『うらを見せおもてを見せて散るもみじ』、越後の禅僧良寛さんの最後の歌です。日本人なら誰にでも慕われてい

る『まりつき上人』であります。禅僧と申しましても良寛さんにはそんな一宗派にとらわれない大きさがあります。

何にも素直に受け止められる大きさであります。しかし表面は屈託なく見えてはいても、その純真さ、素朴さはど

れだけの苦闘を積み重ね得られたものでありましょうか。良寛さんに対する親しみは子供達と手まりをして遊び、

隠れんぼをしながら眠ってしまういかにも呑気そうな印象があります。しかしこの正直に生きる事はどれほどの勇

気がいることでしょうか。今に生きる私たちを見ましても自分が自分に正直に生きているといえましょうか。とりつ

くろい、あざむき、ごまかし、自分を良く見せるために必死に『うそ、いつわり』で自分を覆いつくして生きているよ

うであります。明るくふるまう良寛さんの裏側に『心こそ心惑わす心なれ 心の駒の手綱ゆるすな』の自戒が常に

あったように思われるのです。良寛さんの歌集に『蓮の露』というのがあります。この歌集は、良寛さんの最後を

看取った、貞信尼によってまとめられたものであります。この本には歌に加えて良寛さんの『戒語』までが記録さ

れています。九十ヵ条から成るその『戒語』には、人と対するときの心得が事細かく書かれています。天衣無縫

に見える良寛さんがどれだけ細かい事への心くばりをなされたか知る事ができましょう。それによれば、良寛さん

が何より嫌ったのは、『ことばの多き』こと、『口のはやき』こと、『ひとの物いひきらぬ中に物いふ』こと、『よく心得

ぬ事を人に教ふる』こと、『いさかいする』こと、『学者くさき話』をすること、『風雅くさき話』、『さとりくさき話』『茶人

くさき話』・・と要するに『ものしりがお』ということをもっとも嫌われたようであります。『知レルヲ知ルト為シ、知ラザ

ルヲ知ラズト為セ、是レ知ルナリ』(論語)を自戒をこめて書き留めてあります。『物知り顔』『したり顔』この不誠実

さが良寛さんにはたまらなかったようです。だからこそ純真な子供達と共に遊んだのかもしれませんね。「大愚良

寛」と名乗られた良寛さん、浄土真宗の開祖親鸞聖人の「愚禿親鸞」の名乗りと共通しているように思えるので

す。親鸞聖人は『善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり』とそして、蓮如聖人は『心得たと思うは心得ぬな

り。心得ぬと思うはこころえたるなり』と仰せられました。どうでしょうか、良寛さんの禅宗とか浄土真宗だとか、宗

派を乗り越えられた共通点に驚かされますね。だからこそ念仏の歌も数多く残っているのでしょう。その数首を紹

介しましょう。

『おろかなる身こそなかなかうれしけれ 弥陀の誓いにあふと思えば』

『草の庵に寝ても醒めても申すこと 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』

『良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏といふと答へよ』

素晴らしい念仏の歌であります。《ものしりがお、ものしりがお》いつものわたしの顔、今日もまた『ものしりがお』

のふりをして歩むのかと先人の方々の嘆きが聞こえてまいります。