印刷はこちらからどうぞ

 
 
                        無 縁 社 会
 最近「無縁社会」「無縁死」等という事がよく言われるようになりました。
 一説には一年間三万二千人の無縁死があると言われています。現代の世相なのでしょうか、ドキュメンタリー番組などでよく取り上げられるようになりました。無縁死とは孤独死、そればかりか遺体の引き取り手もいない状態を言います。私も十年ほど前、次のようなことに出会いました。いつものように月参詣にあるマンションに暮らしていた八十五歳で一人暮らしをされていた「お婆ちゃん」のところに行ったのですがベルを押しても返事がありません。いつもなら「ハーイ」と元気に答えて下さるのですが、そんな様子がありません。電気の灯りが窓ごしにも点っていますし、テレビの音も聞こえるのです。おかしく思い近所に住む娘さんの家に行き、合い鍵を渡され、お参りだけでもと思いドアを開けますと、部屋のドアの近くで仰向けに倒れていたのです。救急車、警察、又娘さんにも連絡をとりましたが、すでに死後一週間経過していると言うことでした。つまり近くに住んでいる娘さんとも一週間以上音信がなかったことになります。その後警察の事情聴取まで受けましたが【何せ第一発見者なのです】何かやるせない切ない思いをいたしました。しかしこのことは十年前の事ではありましたがこんな時代が近づいていることを予感させられました。家族がいても無縁、会社を辞めれば無縁、町内の地域社会とも無縁、つながりのない社会状況がそこかしこで見受けられます。
 兄弟、姉妹、親子でさえも無縁化が進んでいます。人という字は支え合っている意味があるとか、人間は人と人の間で生きているので人間と呼ぶ、等ということが虚しく聞こえてきます。
 それほど関わること、煩わしさを「面倒くささ」として嫌っているようです。よく聞く言葉に「人に迷惑かけたくない」とか「子供が可哀想だから足手まといになりたくない」というのがあります。そんなときいつも「今、生きていることは迷惑かけていないのですか?」と聞きたくなります。(勿論そんなことは言えませんが・・・)昔の誰もが支え合っていた時代が懐かしくさえ思えます。それは経済的な豊かさと反比例しています。豊かになればなるほど迷惑かけなくて生きていけるという驕りのようなものがあるようです。貧しい時代は互いに支え合っていかなければ生きていけなかったのが、豊かになればすべて「金ですます」ことが出来るようになってしまったのです。頭を下げなくても支えは金で買えるようになってしまったのです。
 面倒くさくもなく、迷惑をかけなくてもすむのです。これも無縁社会を造ってきた要因なのです。近頃のご葬儀は、挨拶、受付、司会、果ては葬儀委員長まで本職と言いましょうかプロの方がよくされます。スムースな進め方、上手で失敗もありません。でも何か足りないのです。
 暖かくないのです。これも無縁社会の一つの風景なのでしょう。
 仏教は「縁起」そのものの教えです。ありとあらゆるものは支え合いもたれ合って存在していると言うことです。本来は無縁の人間など存在しないのです。「迷惑かけなきゃ生きられぬ、面倒かけなきゃ死にきれぬ」のが現実の私なのです。インターネットでのブログ・ツイッターという書き込みが流行していますが、「私の気持ちだけわかってよ」という甘えに思えてならないのです。つながりをそんな勝手な虚しい発信のみでしているのが現代なのかもしれませんね。