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             無 分 別 智
 昔から私たちは正直を美徳として(一部は除く)生きてきました。日本は戦後、権利、自由、
そして平等が叫ばれ民主主義国家として社会原則にもなりました。しかしここにきて何かおかしな事になっているようです。原則は結構な事だと思うのですが、自由と権利によって自尊心と損得勘定だけは高められたように思います。自分は決して悪くはないのです。責任もないのです。なぜならそれが私の権利であり、自由だからなのです。以前なら考えられないような裁判が権利と称して行われています。文句をつけた方が自分の得ということでしょうか。恥の文化と日本は言われましたが、もう返上しなければならないようです。法律に引っかからなければ何をしても自由、法に例え引っかかろうとも、バレないか、裁判で勝てばそれで良し、自分が損さえしなければ、少々のあくどさは誰しもがやっている事として、済ましてしまうようです。そのような事もあれば、又逆に正当な権利があるのにも関わらず、泣き寝入りということもありますね。「正直者がバカを見る」これが実感として今の時代は感じるのです。ごね得、ばれなきゃそれまでよ、であります。政治家がタレント化し、親は教師以上の権利を持ち、いや子供さえも教師より権利を持ってるようですね。ある事件で警察官は仲間が銃で撃ち殺されたのにもかかわらずその犯人が投降したときに犯人に「ありがとう」と言ったそうです。個人の権利を大切にと言ってもそれは他人ではなく自分の権利、個性を大切にと言うことなのです。以前は「他人に迷惑はかけない」が前提でありましたが、そのこともすっかり忘れてしまい「好き勝手にやる自由」を権利と思っているようですね。個性を大切にと言うことと気ままにやると言うことは違うのです。大人と子供、教師と生徒、会社の序列、学校の序列すべてが平等の名の下に外されてしまったのです。それは人間の権利の主張とは無関係ではないと思います。家族も親子関係でさえ、ともだち関係と言われるのはこの典型です。世界中が権利の主張で誰もが王様気分に浸っています。便利な物が次から次へ与えられ誰もが王様気分になります。
 すべての人が自分を王様と思い、世界中は王様であふれ、だからこそ混乱や争いの多いの社会状況になっているようです。王様ばかりの世の中は人間関係の折り合いがつけづらいものです。このような世の中は分をわきまえることが少ないようですね。何年か前オリンピックマラソンででメダルを取った女子選手が「自分で自分をほめてやりたい」と言い、流行語にもなりました。この言葉に私は何か違和感を感じていました。自分で自分を祭りあげる甘えでないかと思ったのです。自己主張の強い時代ですね。正直が死語にさえ、なりかけています。社会は共同生活なのですが自己探しとか自分勝手が大流行です。社会と順応すれば魅力のない生き方であり、個性を発揮すれば他を無視するような生き方になってしまいます。仏教は二分化を否定します。 それは分別を否定することなのです。自分の分別がどんなにあてにならないか、自分のエゴは分別ばかりであります。分別は「道理をわきまえる」という意味もありますが、仏教では物事を別け隔てをして考えることです。これを分別智といいます。善悪不二・生死不二・仏教は別け隔てのない教え、これが無分別智であります。自分勝手な分別の生き方をされている方があまりにも多く、このことが何かギスギスした社会状況を造っているようですね。