無 関 心
 
人はさまざまなものとふれあうところから出発しています。誕生の時から、母とふれあい、父とふれあい、又多くの人々や、自然とのふれあいから『人』として成立していきます。喜びも悲しみも、自然に対する優しさもそのふれあいから学んでいきます。ところが最近ではこのふれあいが、わからなくなってきています。それどころかふれあうのを嫌がり、『私は私』とばかり、無関心が目立っていないでしょうか。人前で携帯電話で大声で話をしている方を見ますと『まあ、何と失礼な!』と思いませんか。人がいようが、いまいが関係ないのです。他人の迷惑考えず、自分の世界だけに没頭してしまいます。『おいおい、ちっとはこっちの都合も考えろ。お前一人の世界じゃないぞ』と言いたくなります。昔、木枯らし紋次郎の決めゼリフ、『あっしにゃ、関わりのないことでござんす』なんでしょうかねぇ。でも紋次郎さんは結局は大いに関わりあった物語りでありました。しかし今は本当の無関心の時代になってはいませんか。人間が多く住んでいる都会においても、群衆の中の孤独であります。おそらく人が倒れていても何人、声をかけるでしょうか。イジメを見ても何人そのことに関心を持ち注意するでしょうか。『変に声をかけて注意でもすると、ナイフでブスッとこられるも、今時の若い者はそんな事は平気でやるからなぁ』と見て見ぬふりをしてしまうのではないでしょうか。いつからこんな日本になってしまったのか、薄ら寒い気がします。 
無関心ですから、人目は全く気になりません。公共の場においてでさえそうなのですから他人に対しても、自然に対しても優しさとか、気にかけるとかはありません。ところがこのような方々も、関心事はあるのです。それは自分に直接関係することなのです。自分と直接関係無いことは全く無視してしまい、目先の事のみを追いかけているように思えるのです。他人の痛みとかの想像力が乏しく、《ひとごと》として考えてしまいます。しかしこのことは人としては《卑怯》な事であります。なぜならすべてのものは《縁起》と呼ばれる法によって成立していると、仏教は教えます。
《ひとごと、自分のこと》これは決して別事ではないのです。ウガンダ、アフガン、私とは無関係ではないのです。《ひとごと》としてしまうことは《私のいのち》そのものも粗末にしているのです。文明の発達はあらゆるものの不思議さを解明してきました。しかし私たちはどれだけ本当の事が解っているでしょうか。おそらくまだ万分の一つも解ってはいないと思います。それを『解った』と驕ったところに、感動の心を失っていったようです。自分の興味のあること、刺激の強いもののみに関心を持ち感動するのは本当とは言えません。日常性の中に感動を見出す大切さを思います。一輪の道端の花、作物を育む土の力、百年、二百年先を考えて植樹する人々、私のイノチ、この不可思議(思いもよらない)さを味わっていただきたいのです。景気回復、構造改革も大切かもしれませんが、お金ばかりでなく、自然のイノチの根本を考えてほしいのです。仏教が人間の無関心さの抑止になればと・・・・・