印刷はこちらからどうぞ

 
 
                         無  記

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ、とかくにこの世は住みにくい」(夏目漱石、草枕)。漱石が指摘した通り、人の世に住んでなかなか思い通りにはいきません。その感じ方は、人によってまちまちでありましょう。皆様は良い世の中だと思いますか、それとも今ひとつでしょうか。最近は口を開けば、政治は金にまつわる汚い話、子供は道徳精神がなっていない、凶悪犯罪は多く、我々もいつ被害者になるかわからない、北朝鮮からはミサイルが飛んでくる等、とにかく世の中は暗い話題が多いようです。日本全体が暗さに覆われているような印象もありますね。しかし世の中が良い悪いとか、明るい暗いとか言うのは、自分の見方、感じ方であって他人は違うのかもしれません。感じ方はあくまで「自分」であって「他人」は違うのかもしれません。仏教に無記と言う言葉があります。お釈迦様は、答えるに値しない質問を無記といたしました。お弟子が無記の質問をされますと、沈黙したと言われます。私達は無記に振り回されていないでしょうか。一枚の布きれがあったとしましょう。同じ布きれから美しい着物が出来たり、雑巾などになります。本来布は布でしかないのですが、着物は「美しく」雑巾は「汚い」と思ってしまいます。元の布は布であって美しくも汚いものではないのですが「私の勝手な思いが」区別してしまいます。布はきれいか汚いかは私の思いであって、本来は無記と言うべきでしょう。世の中の善悪とか、明暗とか、美醜とかいうのも本来無記ではないでしょうか。ところが「私」は自分勝手な符号やらレッテルやら、色眼鏡をかけて見てしまうのです。そうして自分の感じ方を他人も同じように感じていると思い込んでいるようです。「ウマが合う」という言葉がありますが、この感じ方に同調していく仲間であります。ところがこの考え方は自分の思いと異なる人を「変わり者」「おかしな人」と、排除してしまうようです。「あいつはおかしい」とか言い、多数の論理がすべてに優先してしまうのが、民主主義なのかもしれませんね。そのような考え方が逆に「仲間はずれにされたくない」、「変わり者と思われたくない」と「合わせてしまう」生き方を私達はしているようです。「本当の自分を生きているか?」と、問われますとあやしくなってしまいます。今盛んに選挙が近い、内閣支持率が言われますが、ささいな事で支持率が一方的に流れる恐ろしさを感じます。時代の雰囲気に流されやすいのが、今の「私」のようです。テレビ番組も視聴率の奪い合いです。視聴率が高いのが良い番組なのでしょうか。行列をなす食べ物屋さんが良い店なのでしょうか。みんなが並ぶ、みんながやっているから、良いことなのでしょうか。自分はどこに行ってしまったのでしょうか。このような世間の常識のようなものに縛られている「私」なのす。しかしそれは世間の常識が私を縛っているのではなく、私の思いが私を縛っているのです。「自縄自縛」そのものです。そのようなことが差別、偏見を生み出す元になっていないでしょうか。仏教の見方は「無記」とか「不増不減」(増えもせず減りもせず)であり「如実知見」(ありのままに)であります。ウワサ、評判、口コミというのも私達の判断材料かもしれませんが、今「自分の見方」「自分の感性」で学ぶ大切さを思います。「私を生きる」とはそのような事なのです。悔いない自分の人生を生き抜きたいものです。