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                               流 さ れ る
 
凶悪な事件が次から次へと起こっています。以前には考えられないような家族同士が殺し合い、しかも遺体をバラバラにするようなことさえも、流行のようになっています。子供ばかりでなく、大人も「死」に対する本質を知らなすぎているようです。年老いて家で家族に見守られながら逝く「死」が身近にあった以前には死に対する教育が知らず知らずに理解されていったと思います。死は「残酷だから子供に見せてはいけない」とか、交通事故に出会ったときには、「子供の教育に悪い」「見てはいけない」と、遠ざけてしまうのが今の日本の現実でしょう。特に我が日本では「縁起が悪い」等と徹底して「死」を忌み嫌う習慣がありました。その事が「いのちと死」という人間の根本問題を見えずらくしているように思えてならないのです。 「戦争や事故で人が死んでいく姿は残酷でとても子供には見せられない」と、言われる方がよくおられます。しかし私はそのようなものを、徹底的に見せるべきでないかと思っています。 本当の「死」というものがどれだけ、残虐であり、苦痛を伴い、悲しいことであるかということを、しっかりと見せるべきでありましょう。肉親の「死」から先人達は多くのことを学んできました。今は本物の「死」から遠ざけられながら偽物の「死」には取り囲まれいます。情報、テレビ、ゲームなどバーチャルな死とか、残虐な世界には不自由いたしません。今の小学生は「人間は死んでも、生き返る」と答える生徒が半数を超えるといいます。一度死んでも又すぐに生き返る、それは他者ばかりでなく自分をもそのように見ているからこそ簡単に「自殺」などもしてしまうのかもしれません。あるテレビ番組でコンピューター相手に囲碁をした場合と、人間を相手にした場合と脳がどのような違いの働きをするのかを脳波などを調べますと人間相手の時の方が前頭葉が、活性化するという結果が出ました。前頭葉は人間だけが特別に発達しており、考えたり記憶したり、自制力、自発性などを育てるのに大きく関わっている部分だそうです。人間は人間同士が生身でぶつかり合ってこそが大切だということでしょう。しかし近年は、メール、携帯電話、テレビゲームなどではよく会話をしたり、コミニュケーションをとりますが、実際に面と向かって話ができなかったり、どこか薄っぺらな人間関係しか築けないようになっているようです。又それを煽るような「金さえ」の経済至上主義がその事に輪をかけています。日本人は元来流されやすい民族だと言われています。何かがあれば一致団結して同じ方向に向かって・・・でしょう。それが良い方向だと良いのですが、何かを自分自身で考え行動するのが、苦手のようです。自身で決断できないとなると大勢に流されるか、はたまた占い、迷信などにたよっていきます。今、世の中の大勢を造っているのはテレビ、インターネットなのかもしれません。しかし作り手は流しっぱなし、ただ視聴率さえという経済論理しか働いていないようです。せっかくのただ一度の人生を振り回され、流されて生きていては自身の人生ではありません。長い、短いを問うよりも、日々実りある自身の足で立つ人生であって欲しいものです。自身を大切にしないものにどうして他人を大切にできるでしょうか。仏教的な生活はこんなところから出発するのです。一人一人がそれぞれ「流されず」、「人身受け難し」と受け止めていただきたいものです。