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                 『何かヘン』
 
地球温暖化、環境の急変が報告されています。「北極の氷が溶けている」「地震が多い」「魚がおかしい」「鳥がいなくなった」等、世界中から伝えられます。真実はともかく「何かヘン」という感覚は誰しも感じられていることでありましょう。「今の世の中はどうなっているのか」とか「今の若いモンは」と言うのは以前は[年寄りのグチ]で終わりました。しかし今はこのようなことは誰しもが納得してしまうほど「何かがおかしい」のです。自然環境ばかりか、政治経済、地域社会、家族、そして私たちの心のありようさえも変わってきたのかもしれません。
 いったいいつからこのような事になってしまったのでしょうか。
 戦後の高度成長時代だとか、バブルがはじけた頃だとか、様々な見方は出来ることでしょう。
 一説には約二百年前の産業革命に始まったと言われます。それは人間が便利さを気軽に手に入れはじめた時期であります。それでも初期の段階では、この地球にも力があり。少々の汚染でも跳ね返す事ができました。回復力が汚染の破壊力より強かったのでしょう。
 しかしその後二十世紀の半ばも過ぎますと、公害という問題が発生し出しました。その頃、真剣に取り組み対策を考えればよかったのかもしれませんが、公害はあくまで一部の地域の出来事として片付けられていきました。東京のスモッグ、四日市ぜんそく、新潟イタイイタイ病、そして水俣と、公害にはほとんどが地域の名前がついた部分的なものでありました。しかし、交通、通信が発達し世界中のグローバル化が進みますと、公害、環境も地球規模になってきたようです。もう地域の問題ではなくなり、又、子や孫に伝え残していくものとして次世代への課題として問題化されてきたのです。「何かヘン」と言うのはこのようなことなのかもしれません。この原因は端的に考えますと「人間の限りなき欲望」といえます。便利さ、楽しさ、スピード、これが豊かさと思い込み、未だその考えを変えようとは思っていないようです。自然破壊を訴えながらも、今の暮らしを変えようという考えは出てきません。リサイクル、エコ、も大事なことでしょう。しかし自分の生活を不自由、不便にしてまでも今の暮らしを変えようとは思わないのです。環境保護などと叫ぶことは人間の傲慢さなのかもしれませんね。
 それよりも自然の恵みに対するつつしみが私たちに求められているようです。私たち浄土真宗の食前の言葉があります。『多くのいのちと みなさまのおかげにより このごちそうにめぐまれました』は、自分のいのちを育み、支えてくださる恵み、そしていのちに対するつつしみであります。この「いのち」が今見えずらくなっています。魚でも、肉でも、野菜でも他の「いのち」というより「モノ」として扱われているようです。牛や豚や、鳥が飼育されている場所を工場とさえ呼ぶのです。工場は「モノ」を製造するところであり「イノチ」を育むところではありません。「イノチ」を見失うことは自分の「イノチ」さえも見失うことになります。
 自己の欲のためには何でも正当化してしまい他のことは考えられなくなってしまうのです。
 仏教の縁起の理法『我ありて 彼あり 彼ありて 我あり』という支え合って生かされている「私」を見つめつつ「何かヘン」な世の中を見直したいことですね。