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                         何のために

「パナマ文書」で税金逃れ、「消費税」は先送りか?など日本の政治も人々も景気中心、経済中心、お金中心で動いています。そのような中で教育とか環境とか防衛とかが語られます。
 その問題を語り合う場も諮問委員会とかが造られ、政界、官界、財界等の「えらい人」が委員として選出され有識者などと呼ばれつつ、都合の良いように決定されていきます。
 地道に活動されている方とか、地方で野の草のような方は決して選ばれませんね。会社の重役か経営のトップばかりで決められます。そこには「どうすれば日本の利益になるか?」ばかりです。金儲けになる分野にはおおいに税金を投入しますが、心豊かな人間を育てるところにはお粗末なものです。大人は青少年の退廃を嘆く前にこの辺りの事を見直すべきでしょう。
 人間のものの見方には二つの視点があると言われます。一つには「値打ちがあるかどうか」もう一つは「意味のあるなし」です。私たちは日常生活の中でものを判断するときのほとんどは、値打ちがあるかどうか、役に立つか、損か得か、お金に換算したらどうかで決定しているようです。その価値がなければ何の意味もないものとして扱うということでしょう。
 しかし人間のものの見る価値とは決してそれだけではないはずです。
 それは「意味」というものを大切にするということです。正直に告白しますと、他人の子供がどんなに不幸になろうとも同情はしても心の底から痛みは感じないのです。悲しいことですが自分に直接影響を与えることには敏感ですが他のことに関しては評論家になり痛みが感じないのです。我が子は可愛くても・・・とうことでしょうか。これは我が子に意味を見いだしているということでしょう。単なる値打ちではないものです。しかし、この意味あるものさえも粗末にする風潮が最近は多くなっています。本来日本人にはこの意味あるものを大切にすることが生活の中に根付いていたはずです。損得ばかりを考えて意味を大事にしなくなっています。食事も「ご飯をいただく」のが、「飯を食う」になり「いのち」が見えなくなりました。
「太陽」「月」と言うのは科学の言葉です。「お日様」「お月様」と前後に敬語をつけて呼ぶ国は日本だけの美しい習慣だったのです。そこには宗教的な「お陰様」と呼べるものが流れていたのでしょう。科学の試験の答えに「お月様」「お日様」と書いたらおそらく今は×なのでしょう。 しかしこの答えを○と書ける教育が大切に思えてなりません。人生の答えは一つではありません。答えの中にも心が豊かなものもあるのです。画一的に同じ答えを求めるところに社会のひずみが出ています。
 現代の社会は見せかけの豊かさです。立派な家に住み体をほとんど動かさない便利な生活、自動車、新幹線に乗りスピードも満たされています。しかしその中で何か心の空虚さを感じている人が大変多くおられます。スマートフォンを持ちながら興じていても、顔が明るい人を見たことがありません。ゲームをしていれば楽しいのでしょうが意味の喜びがないのでしょう。 仏教の根本はこの「意味ある人生」を説いています。見せかけの豊かさではないものを求められています。科学の発達、知識は凄まじい進歩です。しかし自分自身の事は何もわかっていないし教えてもくれません。私のいのちの根源、何のために、の意味を求めるのが仏教です。