年 回 法 要

『今年は、年回の年に当たっているので、法事を努めますので・・・・お寺さん、時間を
空けといてください』。最近は、休日にほとんどの方が法事を努められます。ところで
先頃こんなことがありました。ある家に法事に参りますと、孫さんでありましょうか四,
五歳位の子供さんが『お坊さん法事ってなーに。どうして何のためにするの?』と聞い
てこられました。そうしますとそこのご家庭のお婆ちゃんが『爺ちゃんの霊をなぐさめる
ためだよ』と答えられました。
私は何も言わずに黙っておりましたが、そうしますと御親戚の方でしょうか『うん、何
てったって追善供養は残った人間が努めてやらなけりゃ、亡くなった者がかわいそう
だからナァ。』と言います。皆様はこの子供の問いにどう答えるでしょうか。以外と
法事が慣習となっており、ただ漠然とこの方たちのように受け止められているのでは
ないでしょうか。お婆ちゃんの答えは《慰霊》ということでしょう。慰霊とは文字通り亡く
なった方の霊を慰める事、つまり亡くなった方が安らかでは無いという事です。安らか
で無いので、自分や家族、縁者にタタらないように、災いをもたらさないように、つとめ
る事です。弔辞などでも平気でこのような言葉が使われますが、これは亡くなった方に
大変失礼な言葉ですね。亡くなった方は残った方を心配はしても、子や孫にタタル先祖
がどこにあるでしょうか。そんな子孫を逆に先祖は嘆き悲しんでいると思います。
これは自分にとって不都合な事が起きれば先祖のせいにしてしまいます。不幸は先祖
のせい、幸せは自分の手柄、かってなものですね。次に《追善供養》はどうでしょうか。
これも文字通り、『善を追加する』と言うことです。これは『亡き人が生前何らかの理由
で善を積み重ねられなかった、だから成仏しないで迷っている、亡き人が生前足りな
かった善を法事を努めて追加して成仏をさせよう』という考えです。これも亡くなった方
は安らかではないということですね。
《慰霊》も《追善》も私たち凡夫にはおもいはかることが出来ません。どうすれば成仏
したといえるのか、まだまだ迷っているのか私たちにはわからないのです。『どうぞ
安らかにお眠りください』『ご冥福をお祈りいたします』よく考えますと、言葉は美しく
感じますが何と無責任な言葉でしょうか。先の慰霊は仏教にはありません。追善供養
は浄土真宗以外の仏教で行われています。浄土真宗は仏恩報謝の報恩の行いとして
つとめられるのです。浄土真宗のみ教えは、亡き人は命終える瞬間、仏となり、残され
ました私たちを導いてくださる方として味わうのです。ですから私たちの方から亡き人に
何かを振り向けるのではなく、逆に仏となられた亡き人に心配かけ通しの私を知らされ
るのが法事の場であります。私たちに差し向けられるのですから、私たちはただ『ありが
とうございます』と申すばかりであります。浄土真宗の法事は感謝の行であります。
なお、『法事は遅れてはいけない』とか、『三、七、と、つとめればいい』、とか迷信、
俗信が入り込んでいますが。毎年つとめられても、毎日つとめられても、かまわないの
です。報恩行は毎日の私の生活の営みの中にあるのですから・・・・・