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                如 是 我 聞

「仏説阿弥陀経、如是我聞、一時仏在、・・・」仏説阿弥陀経の始まりです。この中の如是我聞は、この経ばかりでなく、他の経典にも出てきます。これは「私はこのようにお釈迦さまのお話を聞きました」と、いう事です。お釈迦さまの説法をお弟子が、後年編集し、書かれたのがお経です。この「如是我聞」と受け止められ、そして書かれたたお弟子の英知に感銘します。
 一般的にはおそらく「お釈迦さまはこのように言われた」と書かれると思うのです。
 しかし「お釈迦さまが言われた」と「私はこのように聞いた」とでは、微妙に違います。
 人にはそれぞれ、聞き方が違っているようです。同じ講演会を聞いても、同じ映画を見ても人によって受け止めは様々です。話し手と聞き手の関係も同じように、自分の話したことが、どれだけ正確に相手に伝わっているでしょうか。立場上ご法事等で、私の拙い法話の後の食事の席等で歓談の時に、相手の方が、自分の伝えようとしたことと、全く逆の受け止め方をされている事があります。私自身の力のなさを感じると共に、伝え方と聞き方の差の大きさに愕然といたします。話す、聞くとはそのように自分勝手な主観的なもののようです。自分勝手に都合良く解釈して聞いている事が多いようです。そこに聞き手としての問題はないでしょうか。自分の思いに添う話は良い話、意に添わない話は聞きたくもないと、いうことでしょうか。何でも得手勝手に己の都合の良いような聞き方をして、自分の誤りに気づかない事も多いようですね。
 そのようなところから、いろいろな話の食い違いが起こったり、諍いが起きたりしています。
 「あのとき、ああ言ったじゃない」「私はそんなつもりで言ったのじゃない」と争いの始まりです。人間はどうも自分の事も都合次第で責任を相手にかぶせていきます。「自分の話の仕方が誤解を招いた」とか、「自分勝手に相手の話を解釈していた」等とはなかなか言いません。
 それは無意識のうちに責任を相手に転嫁していることに他なりません。たちの悪い事には無意識ですからその事にも気づかずに、責任転嫁しているつもりなどないのです。「如是我聞」(我かくのごとく聞けり)は、話し手の問題ではなくすべてが聞く側の責任としてとらえられています。
つまり、聞いたことの責任は、聞いた本人にあるという事です。お経もそうかもしれませんが、話し手の上っ面の言葉ではなく、その中から真実何を伝えたいのかを聞き取る力が大切なのです。
 今年は、自己責任論が盛んに言われましたが、基本的には、責任は追及するものではなく、自らが負っていくものだと言うべきでしょう。責任転嫁は楽です。何も自己の責任は負わなくてすみます。私たちは他人の批判は平気でしますが、自分には甘い点数をつけてしまいそうです。 仏教は、「自己を見よ、他人を見るほどの厳しさで」であります。「如是我聞」の言葉だけでも経典の深い味わいを感じられる事です。この言葉は、自分自身が自己の責任として、謙虚に受け止め、他を責めない言葉であります。仏典によせる古人の智恵に頭が下がるばかりです、と共に現代を生きる私たちに深い示唆を与え続けてくださいます。「知ったつもり」「わかったつもり」、の私たち、しかし、いくつになっても、「私」を問い続けて歩むのが仏法であります。