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思い上がり

 「失われた二十年」とも言われまして、日本はなかなかこの流れから脱出できないようです。「かっての日本をとりもどそう」とも言われますがかっての日本はいつのことをさしているのかわかりませんが・・・戦後とにもかくにも全般的には、世界の他の国々と比較しますと豊かで、便利な生活をしています。わずかな期間で世界のG-七と言われる国に数えられているのですから。それでも衣食住は満ち足りているはずなのにいつも不安だらけです。しかもそのことが加速化しているように思えます。今の社会状況、政治状況、全てにおいて落ち着かない未来に対する不安だらけです。それは一つ一つの「いのち」に対する不安といってもいいでしょう。「これからどうなるのでしょうね?」と参詣の時によく言われ、聞く言葉です。この問いに対し「頑張れば何とかなる」「今は辛抱ですよ」と以前は言い切ることが出来たのですが、今はこの言葉を使うことが出来ないのです。「なるようにしかならないよね」と言うのが精一杯です。こんな話をするようになったのはここ二十年ぐらいでないかと思います。
 競争原理ばかりで不安な会社、仕事、子どもの時から競争にさらされる若者達、年金を奪い合う老人達、保育園から介護施設まで、「ゆりかごから墓場まで」競争ばかりです。
よく次のように言われる方がおります。「私は子どもの世話にはなりたくない」「誰にも迷惑をかけたくないから、葬式は質素に家族葬で、坊さんは一人で、経費なんぞはかけられん」と終活を考えておられるのが世の流行のようであります。時代はずいぶんと変わってきたのですね。 何かちょっぴり寂しいことではありますが・・・しかしそこには「誰にも迷惑をかけていない」という思い上がりも見えるのです。「迷惑をかけていない」というのは「一人で勝手に生きている」と同意語です。人間は一人では生きられないのです。人と人とが生き合うから「人間」と言うのです。「働けなくなったら年金がある」「病気になれば介護保険」という制度を国が造り老後は安心、年金は百年安心という甘言に乗せられ「子どもの世話になどならなくても・・・と言うようになりました。どうも最近はそれも怪しいことですが・・・子ども達も自分の家庭を持ちこの世知辛い世を生きていくのは大変なことでしょう。子どもには子どもの生活があり親が邪魔をしたくない、足手まといにはなりたくないのも理屈としてはよくわかります。
 「自立」するのは良いこと、自立の精神を持つようにもよく言われますが、自立と「孤立」は違います。今は孤立が目立つのです。合理主義の行き着く先がこの孤立を助長してはいませんか。震災や災害が多いのですが、助け合いが叫ばれます。しかし逆の見方をすれば助け合いは邪魔のし合いということになります。邪魔したりされたり、迷惑かけたりかけられたり、まったく合理的ではないのです。もっとも復興ビジネスとかで金儲けを企む不埒者もいるようですが・・・維持の張り合いは疲れますよ、邪魔をし合いましょう。迷惑をかけなけりゃ生きていけないのが私たちなのですから。「人の世話にはならん」と言うのは『排除されてやる』と言っているのですよ。仏教は一人で生きていけない悲しさ、そして喜びを説いているのですから。合理主義は自分に都合の悪いものを排除する考えです。そしてそれは醜い人間の「思い上がりの」あからさまな姿に他なりません。