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     思い込み

私たちは日常思い込みで生活していはいないでしょうか。思い込みというのは恐ろしいもので何も気づかずに突き進んでいきます。単なるたわいのない間違いならまだ救いようもありますが、「聞く耳持たず」ですから困ったものです。これを直すには大変なエネルギーが必要となります。思い込みは自分勝手な「経験やら」「聞きかじり」やらが根拠になりますが「わかったつもり」ということなのでしょう。今年も日本人がノーベル賞を受けましたが、受賞者に共通のことは「思い込み」がないということです。謙虚に研究に向かう姿が見られるのです。
 なまじっかの思い込みがこのギスギスした社会を作っているように見えるのです。次のような話を聞きました。「野鳥の会」というのがありますが、その野鳥の会で観察会がありました。 リーダーが「今日は珍しい鳥がいるから皆さんは是非その鳥の名前を当ててほしい」と言いました。いつもの通り観察会をしておりましたが、しばらくいたしますと、リーダーは「そこに珍しい鳥がいますよ」と言いました。会員は双眼鏡を片手に集まりだしました。
 勿論、野鳥の会の会員ですから「あれは○○鳥だ」「いや××鳥だ」とそれぞれが珍しい鳥の名前を挙げました。ところが全部違っているのです。実は正解は「スズメ」だったのです。
 リーダはあえて珍しい鳥と言って誰でも知っているもっとも平凡なスズメを見せていたのです。知識や自信があるだけに会員の人たちはまさかスズメとは思いませんのでスズメに似ている珍しい鳥としか思わないのです。これと似たような思い込みを私たちはしていないでしょうか。私たちはいつも見慣れているスズメさえもよく見てはいないのです。
 慣れで見ていますのでそのことにも気づかないのです。観測慣れをしているはずの人たちさえも珍しい鳥というだけで、その言葉に心を奪われスズメをスズメと思わなくなってしまうのです。リーダーは「君たちはスズメも知らないで珍しい鳥の名前をよく知っているな。でもこんな珍しい鳥の名前を知っていてもどうしょうもない。スズメだって野鳥だろう。原点に帰ったらどうか」と言ったそうです。考えさせられますね。今の世の中、あらゆる事に耳年増、目年増のような方が増殖しているようです。国会の論議でさえも、自分自身の意見と言うよりも、どこかの評論家、新聞、テレビ、雑誌などが述べていることをなぞっているように思います。 情報の発達はいよいよこの「思い込み」を、強くさせているようです。
 思い込みは「傲慢」な人間を生み出します。
 「人間は小さく、したがって小さなものこそ美しい、巨大主義に進むことは自己破壊に進むことだ」(シューマッハー)。この言葉にもかかわらず人間がえらい人になっています。
 仏教はこの世界とは逆の見方をすすめます。「いつも、どこでも人間は過ちを犯しうる」という見方です。無常、無我もこの見方です。せめて自分の見方が「思い込み」によって成り立っていることを知るべきでしょう。これを知らないことがどれだけ他を損ない自己さえも損なってるでしょうか。その悲しさを冷徹に見つめられた方が親鸞聖人であります。
 自分はいつでも間違いだらけでありそのことに気づかせていただくのが仏法を聞くというとなのです。今失われつつある謙虚さや本当のやさしさという言葉を思います。