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御 同 朋

 先日の「イスラム国」の人質殺害事件は、日本中を驚愕させました。いやが上にも今までは遠い国の出来事であったことが、グローバルという名の下に地域の距離が縮まった印象です。 殺害された後藤健二さんはフリージャーナリストとして戦争で傷ついた人々、子供たちに寄り添っていたと言われています。今、イラクで、アフガンで、シリアでどれだけの子供たちが傷つき殺されていることでしょうか。痛ましい限りです。あのような出来事からは恨み、殺し合い、報復合戦しか生み出されないのかもしれません。
 しかもその事が世代を超えて伝わっていきます。安倍総理も「テロリストに償いをさせる」というような発言をしています。又有志連合国が為している空爆の下ではどれほどの人々が犠牲になっているのでしょうか。空爆は生身の人間の被害状況が見えないのです。今は無人機の爆撃もあるようです。空爆は直接的に人の苦しんでいる様子や、死していく姿が見えなくなり攻撃側の罪意識や人を傷つけている事が気持の上から軽減されるのです。
いや攻撃側の兵士の負担を和らげるために見えずらくしているのでしょう。
 目に見えない殺戮が空爆です。戦争はどんなに弁明しようが人と人との殺し合いです。
 第二次世界大戦が終結し敗戦国となった日本に各国から損害賠償請求が出されました。
 当時戦勝国イギリスの統治下にあったセイロン(現スリランカ)は賠償を放棄いたしました。そのときのセイロンの外務大臣・ジャヤワルデネ氏はサンフランシスコ講和条約の席上お釈迦様の言葉を引いて次のような演説をいたしました。「もろもろの怨みは怨みをかえすことによっては決して鎮まらない、もろもろの怨みは怨みを返さないことによって鎮まる。これは永遠の真理である」と。仏教国セイロンの精神です。「いのちは地球よりも重たい」子供の頃良く聞かされたフレーズです。今はいのちよりも国益とか、お金が大切にされる時代に見えてきます。 どんなに正義や正当性を並べてみても、はていのちよりも大切な正当性はどこにあるのかを問わざるをえません。一般社会で人を殺すと凶悪な犯罪となるのが戦争という非常事態では許されるという不条理な現実があります。どう考えても不条理そのものですが危機を煽り続け、その事が自国民を守るという理屈をつけます。多くの国において今なおいのちの倫理の問題と政治の問題が整合性を持たないままです。「すべてのものは暴力におびえる、すべての生き物にとっていのちは愛しい、おのが身に引き比べて殺してはならぬ、殺さしてもならぬ」いかなる理由があろうとも人を殺してよい理屈などあるわけがありません。生活習慣、言語、思想、宗教、考え方の根本が異なってもいのちを奪い合うことはあってはならないのです。想像しませんか。シリアも、イラクも、テロリストたちも今日本から敵視されている北朝鮮の人々も誰もが家庭を持ち、家に帰れば子供と遊ぶ事を楽しむ良い夫であり、優しい父親なのです。
 平穏に暮らしたい願いを誰しも持っていることを想像しませんか。
 戦争は人に狂気を求めるのです。親鸞聖人は「世の中安穏なれ、仏法広まれ」との願いです。 その心を受け継ぎテロや戦争によっていのちを奪い合う行為を恥じいのちの尊厳が大切にされる「御同朋の社会をめざして」、非戦平和に向かい合いたいものですね。
 大切ないのちを失った後藤さんの願いはこんなところにあるように思えますが・・・・