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冷 凍 食 品
 
いつの頃からでしょうか、スーパーで野菜を手に取り産地を見るようになったのは。
 「中国」と表示されていれば棚に返す習慣になっている人が多く見かけられます。しかしそのような事をされる人間が、冷凍食品を大量に買い込んだり、ファミリーレストランで安価な食事ですましてしまう、それが今、日本の食事の風景であるように思えます。しかし食糧自給率が四十パーセントにも満たない日本が外国、とりわけ中国のものがなくてすむはずはないのです。日本独自で食材が溢れていることなどないはずです。原材料はほとんどが輸入品であり、例え日本の食文化の象徴のものでさえ、外国のものなのです。味噌・醤油・豆腐・納豆など大豆製品はほとんどそうでしょう。今や一流ホテルの食事さえ冷凍食品で造られると言います。チンと解凍すれば手作りよりもおいしいものが出来上がる、しかも自分で作るよりも安価な価格で出来るのです。まな板のない家庭、包丁のない家庭、それらを使わなくても食事が出来る家庭、そんな家庭で育った子供たちに食卓はどんな風景なのでしょう。今の食事の形はそのようなことが当たり前となり、その中で飽食と大量消費が続いています。しかし数年前の中国冷凍餃子事件のようなことが起こりますと、犯人捜し、責任の追及、信頼を裏切ったと怒り、不買運動と騒ぎます。しかし遠く中国で原材料の調達から、製造まで単価を下げるだけ下げて安価な商品を作らせる、膨大な輸送費をかけても日本で作るよりも安価に出来る、何かおかしくはないでしょうか。手作りよりも安く、簡単に出来てしまう、これは異常なことなのかもしれません。私たちは安全で、安心な食を当然のように望みますが、日本に溢れている食品の数々はもうそのようなことを望むには安価になりすぎているレベルに達しているように思えます。
 安価な冷凍食品が並ぶ食卓は日本の豊かさの証明なのでしょうか。いやその風景は経済的にも精神的にも、文化的にも食が貧しくなったことをあらわしています。市場競争が物価を下げたと言うより私たちの飽くなき安くいいものという欲望が生み出していったものなのでしょう。
 海外から輸入に頼らなければ日本の食は成り立たないのにもかかわらず、外食産業の大流行、多彩な学校給食、数限りないコンビニ弁当、そして総輸入量の三分の一は捨てられるという現実、それらの一つ一つが大きな問題を孕んでいます。未だ外国では今日一日を生きる食に必死にしがみついて生きようとする人々がいるにもかかわらず私たちは何をしているのか。国の問題もありましょう。距離の問題もありましょう。あふれかえる食品が豊かさの象徴の時代はもう終わってもいいのではないでしょうか。現実は私たちの食はもっと質素でいいと思います。
 食料輸出国が貧困に苦しみ輸入国が贅の限りを尽くす、これが世界の現実なのかもしれません。仏教の心は分け隔てのない心です。取り合えば足らぬ、分ければ余る、これが世界中の常識になれば良いのにと思います。仏教は他人事はないのです。他人事を我が身として受け取るところに慈悲の心はあるのです。外国製品が危ないのではなく私の欲望が危ないのです。いや危ないものを作り出しているのです。
 スローライフを標榜しながら何でも欲しがる私たちの思いにブレーキをかけたらと思います。