リサイクル
 
ゴミの問題はいよいよ切実になってきているようです。皆様は産業廃棄物と

言われる処理場をご覧になったことはあるでしょうか。何とも言われぬ異臭、

そしてそれを埋め、後は・・・・であります。しかしそれらのゴミは、すべて

私達が営々として作ったものばかりであります。  

ゴミの分別も盛んに行われているようでありますが、処理が追いついていかな

いのが現状のようであります。バブルが弾け、皮肉にも『大きいことはいいこ

とだ』『使い捨て時代』これらのことがすべて見直さなければならない時が

やってきたようです。ところが一方では、『使い捨ててくれないとますます

不景気になってしまう』と言います。私は経済学者でありませんのでよく

わかりませんが、何かおかしくはありませんでしょうか。昔から資源の乏し

い我が国は工夫、そして大切をモットーとして暮らしてきたのです。それが

戦後一変してしまったようです。モノがあふれ今ではすっかりそのような事

は忘れ去られてしまったのでしょうか。浪費によってムダを作りそれが経済

成長の証しとしてしまったのです。しかも依然としてこの考えは根強いものが

あるようです。 

お釈迦様のお弟子のアーナンダが王様から五百着の法衣を贈られたとき快く

その申し出を受け入れられました。王様はアーナンダにたずねられました。

『あなたはその衣をどうされるのですか』アーナンダは『はい、多くの仏弟子

の仲間は、破れた法衣を着ていますので、彼らに分かち合います』王様は

『それではその破れた衣はどうされますか』アーナンダは『はい、破れた布

で敷布を作ります』同じように『その敷布は』『はい、枕の袋に』『古い枕

の袋は』『はい、床の敷物に』『古い敷物は』『はい、足ふきに使います

『古い足ふきは』『はい、雑巾にします』『古い雑巾は』『はい、その雑巾を

細かく分けて、泥と一緒に練り合わせ壁のなかに入れます』と。 

王様はアーナンダの答えを聞き深く感じいったと言います。モノの中にも

いのちを見つめていくこれが仏教の心であります。与えられたいのちを精

一杯輝かせるのは人間、動物、植物ばかりではありません。ありとあらゆる

モノの中にいのちを見つめる大切さを思います。

トリップトラップチェアという椅子があります。少しばかり大きな椅子で

ありまして、座るところが上下二段で可動式になっています。赤ん坊のとき

には、上の段に座り成長に合わせ段を下げていきます。もっと成長しますと

下の段に座ります。そして老人になっていきますと、再び上の段に座るよう

になっていきます。やがてその方が亡くなりますと、今度は孫がこの椅子を

使うのです。何代にもわたって、この椅子を使用いたしますので、今の浪費

社会では作っている製造会社はたちまち倒産でありましょう。しかしそれは

一つの道具を自分の命よりも長く永遠性を持たせて行く知恵にほかならない

のです。もう浪費社会とは決別すべきでありましょう。二千五百年も前から

仏教教団はリサイクル提唱の団体だったのです。モノからココロへ、とはよく

申しますが、モノの中にココロを見つけませんか!