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  理 不 尽

 この世の中での争いごとのほとんどは、この「理不尽」と言うことではないかと思います。
 この事を、感じなければ済んでしまうことでも、ちょっとした「こだわり」に、腹が立ったり、他人をも巻き込む大きな争いごと、時には戦争にまでも発展してしまいます。ここには、自分を「正」とする思いが潜んでいます。理不尽と感じるのは、自分であって、それを行う側は、ちっとも感じていないのですから・・・・ 始末が悪いモノです。
 遠藤周作さんの「死海のほとり」という作品の中に「奇跡を待つ男」というのがあります。
 映画「ベンハー」の中でも、ハンセン病の患者が人里離れたところに隔離されている様子が描かれていましたが、この物語も疫病で苦しむ子供を持つ親が主人公です。子供が苦しんでいるのを何とか救って欲しいと願っている親は、噂でイエスという救い主が奇跡を起こして、救ってくれると聞き、ひたすらイエスが来るのを待ちます。息子を救ってもらいたい、疫病の災いから逃れたい一心であります。待って待ってようやくイエスのような人が現れます。そしてそのイエスらしい人に父親は懇願いたします。「子供を何とか救って欲しい」と。その人は答えます。「私は奇跡などはできませぬ。わたしのすることは・・・」。「治してください」父親は言います。「私ができることは、あなたたちと共苦しむことだから・・・・あなたの苦しみをわたしは・・・」「治してください・・」なおも父親は頼みます。懇願することが父親の出来る唯一の事だったのでしょう。しかし願いは虚しく子供は死んでしまいます。「お前は何も出来なかった。何の役にも立たなかった」と、父親は仲間と共にイエスのような人に石を投げつけ罵倒します。皆様はこの物語の父親を笑いますか。イエスの苦しみを察しますか。この父親の感情と私は無関係でしょうか。いやこの父親の気持ちは今の私の心そのものではないでしょうか。
 子供の成績が悪いのは学校の責任、先生の責任、高い金を払って試験に落ちたら予備校の責任、「あんなに金を注ぎ込んで、やってくれなかった」と罵声を浴びせ、石を投げる私ではないですか。それでも親は自分は何も悪いことはしていない。子供のために・・・というわけです。
 私達もどっかにこのような奇跡を待つ思いがあるようです。自分や家族が病気になれば、病院で医師に診てもらいます。治らなかったら、病院のハシゴをする方も多くいらっしゃいます。そうして治らなかったら「あの、藪医者め!」です。亡くなりましたら「医者に殺された」と言う方もいらっしゃるようです。もう他人のせいにするのは止めませんか。自分がスッポリと抜け落ちているのが、私の思いのようですね。仏法の基本姿勢は「私」の真実を知るところです。私を知らずして何が幸せか、何が喜びか、理不尽なのは他ではなく自分自身の思いこそが理不尽なのではないのですか。自分に対する厳しさは生やさしい事ではありません。
 しかしその事を忘れては、自分をも見失っていることなのです。理不尽な「私」の発見は他との関係にも、大きな影響を与えてくれますよ。私の勝手さで他を見ますと、エゴの目でしか見ませんので、傲慢さや、増長の霞がかかってしまいます。「理不尽なのは、いつも私」と気づきつつ歩む中に、真実が見えてくると思いますが・・・・