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  察  す  る
 
人間同士の信頼関係が築きにくくなっています。すべてが合理化と、勝手な都合によって成り立ち、義理人情の世界が入りにくい世の中です。強者によってすべてが、単一化され、同じ方向を向いていないとたちまちに、取り残されるばかりでなく、しっぺ返しが、戻ってくるようです。違いを認めない社会は息苦しいものですね。日本の社会の合理化は一九六〇代から始まったと言われています。多くの企業戦士を生み出し「二十四時間働けますか?」等の言葉に踊らされ、やがてそれは公害をはじめとする自然破壊をもたらし、ついには、人間破壊をもたらしています。自然や他の人々に対する洞察とか、想像する力が極端に弱くなってきています。相手の事がよくわからなくなってきているのでしょう。一九八六年に東京の中学校で起こった鹿川君イジメ事件がありました。クラス全体で「お葬式ごっこ」と称して鹿川君一人を生徒ばかりでなく、先生さえもそのいじめに協力していたのです。クラス全体はそれで大いに盛り上がるのです。しかしたった一人鹿川君の悲しみ、苦しみ、悔しさには誰も思いが至らないのです。鹿川君は新幹線に乗り生家のある盛岡に行き、駅のトイレで首をくくって死んだのです。鹿川君のお父さんの話です。
【いじめている方は仲間が五人いれば自分の責任は五分の一、十人いれば十分の一と思うかもしれません。しかしいじめられる方は相手が五人いれば五倍、十人いれば十倍傷つくのです】 胸にささる言葉です。しかし今でもこのようなイジメは学校ばかりでなく、社会全体に蔓延しているように思えるのです。強者の論理は益々強まり弱者はただ従うしかすべがないような社会になりつつあるように見えます。ニート、フリーター、派遣社員、パート労働、サービス残業、心身共に酷使されても、働かなければならない辛さ、理不尽さを追求したくても出来ない雰囲気、文句を言えば、「お前の代わりはいくらでもいる」と言われそうです。生きていくために「迎合」と「妥協」という産物で自分を偽っているようです。社会的不正にも目をつぶり、見て見ぬふりをするのが得なのでしょうね。
 今この原稿は一月十七日に書いています。今日は神戸の震災から十一年、そして今テレビでは耐震偽装問題の国会喚問を中継しています。又、あれほどもてはやされたライブドアの粉飾決済の事件、宮崎勤の最高裁判決、今日は現代の問題の縮図のような一日です。一人の人間を国全体で叩き、後ろ指をさして、面白がって見ているのが私も含めほとんどの方々ではないでしょうか。解決よりも野次馬根性で取り上げているメディアが多いように思えるのですが・・・・・弱い人間を徹底的に叩き、強い人間に迎合を繰り返す恥ずかしい、情けない事です。他人を思いやることなく、自己の満足だけを求めていく、こんな時代を私たちは作ってきたのでしょうか。仏教の「慈悲の景色」を叫びたいと思います。 千人の人間のうち、九百九十九人の勝者がおり、たった一人の敗者がいたならばそのたった一人の敗者に目を注いでいくのが仏の慈悲というものです。見落としたり、見えていながらも見えないフリをするのはもう止めませんか。「察する」力を取り戻しませんか。