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                          授かりもの
 
 現代はまれに見る少子化社会と言われています。今、年金問題が、日本の将来の問題として取り上げられていますが、これもこの少子化の時代とは無関係ではないのでしょう。
 結婚しない、子供を作らない、計算ではあと三年ほどで人口減少に推移し、五百年もすれば日本人は一人もいなくなるそうです。
 昭和五十三年にイギリスで世界初の体外受精児、試験管ベービーが誕生し、同じ年にアメリカで白血病で苦しむ七歳の子供の生命維持装置の酸素ボンベのコックを母親が閉じてしまい生命を絶ったニュースが流れました。このころからでしょうか、いのちが人為的に語られるようになってきたのは・・・。人間のいのちか試験管にはじまりコックで終わるという現実をつきつけられたのです。「自分の子供が欲しい」という願いは今も昔も変わりはありません。しかし昔のいのちは「授かりもの」であり今のいのちは「つくるもの」ということになってきているようです。
 生殖技術の進歩はすっかり人間を思い上がらせ人智を超えた方向に突き進んでいるように思えてなりません。最近では受精卵の遺伝子診断までできるようになったといいます。男女の産み分けから、優秀な遺伝子の子供をという思い、誰もが優秀だったら優秀とは言わないと思うのですが・・・・。誰もが違うからこそ人間社会と言うのだと思います。誰もが同じ社会は気持ちが悪くはありませんか。又子供の欲しい願いは代理母という考えまで生み出しました。
 子供は「授かりもの」と思い、他人の子供さえも自分の子供として育てていた時代と、どんな手段を使ってでも自分の子供を手に入れようとする時代と人間としてどちらがやさしいのでしょう か。なにより子供を「授かりもの」と考えることは子供ばかりでなく「自分」も「他人」もすべてのいのちが「授かりもの」と見ていけるようになってきます。それは自分のいのちは、自分を超えて他のいのちと、つながり、ひろがっている【縁起】 という考えになっていきます。
 それは自分のいのちであっても自分勝手には扱えるものではないということです。
 臓器移植、尊厳死などという言葉が美しく語られていますが、そのなかで「自己決定」とか「本人の意志」ということがもてはやされています。しかし自分のいのちだからと言って、自分のいのちの扱いを自分だけで決定していいのでしょうか。「授かりもの」なら決してそのようなことは出来ないはずです。他とのつながりの中で私が「お預かりしているいのち」という実感が希薄になってきている時代なのかもしれません。「オレの勝手」ではオレのいのちばかりか他のいのちも見えてはこないでしょう。そればかりか他のいのちを損なうような事も平気でしてしまうかもしれません。確かに医学、科学の発達は人間に多くの恩恵をもたらしました。しかし失ったものというより、見えにくくしてしまったものも多くあるようです。
 仏教の縁起の考えはその見えにくくしてしまったものを「見つめろ、気づけ」と示します。
それはいのちの根本はつながりあい、支え合っているというのが仏教の基本原理そのものだからなのです。