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   清潔・不潔
 
ツルツル、ピカビカと言っても頭の話ではありません。今私達の回りを取り巻くものは、汚れがなく、埃もなく、すべてが清潔感に溢れています。文明国の象徴としての清潔さが異様なほどであります。塵一つ許さない潔癖さ、特に都会ではよりその事が、一つの価値観の基準になっているようです。しかしこのようなことは決して自然ではありません。自然の姿は、そのような人工的な事ではなく、汚れもあり、不便もあり、又それだからこそ美しさもあるのです。清潔感の裏側にあるものを、つい私達は見失いがちになり鈍感になっています。便所は水洗となり、トイレという清潔な横文字になり、流せば何も見えなくなり、生ゴミも臭いを消し、目に見えないモノとして、片付けられていきます。文化国家というのは、そのようなものを目につかなくすることなのかもしれませんね。数年前、ある幼稚園では、砂場の砂が汚いのでそれを消毒するように、父兄が騒いだことがありました。危険なものはともかくも、清潔というモノはいったい何なのか、考えさせられました。無菌状態はいつしか子供に抵抗力をなくしてしまうということを意味します。今は過剰に、清潔を求める異常な社会なのかもしれません。
 これは物質ばかりでなく精神面でも清潔すぎるようです。他人に対して心の塵一つも許さないギスギスした人間関係、余裕のない何かに追い詰められるような社会、このようなことが見られないでしょうか。上司から注意を受けると、翌日から出社出来なくなる新入社員、文句を言うとすぐに泣き出す社員も、今では珍しくないようです。どうやら子供や、青少年、いや大人達さえもいつしか人間関係を構築するのか難しくなって来ているようです。ゲーム脳、ケータイ脳、テレビ脳、のように、情報は次から次へ入ってきますので、人間関係の構築の必要性が薄くなっても「やっていける」のです。買い物でも対話が必要でありませんし、他人と会話をしなくても生きていけるのです。コンピューターに向かっての一日仕事、ブースと言われる壁で区切られ、会社の同僚であっても顔を合わせずに仕事をする職場、これが文化国家なのでしょうか。地域社会でも、共同体はなくなりつつありますし、都会に於いては、まったく消滅したかのようです。都会でなくとも、隣近所とのお付き合いは、希薄となり、親類、縁者との関係も以前よりは薄くなっているようです。家庭内でさえも母親はパート、子供は塾通い、父親は遅くまで残業と、家庭がバラバラになっています。しかもお互いが、家庭のため、家族のために、と思いながら懸命になっているのですが、逆に崩壊の向かうことが多いようです。一家団欒と思いテレビを一緒に見ようと思っても、豊富な番組はそれぞれの嗜好に合わせて送られてきますので、共に見る番組はありません。又子供部屋を個々に造り、テレビを各部屋に置き、そこに子供は閉じこもってしまいます。喜劇なのか悲劇なのか・・・・親が良かれと思うことが逆の現象を生み出しているのです。力めば力むほどこのことから逃れられなくなって苦しんでいるのが今の私達のようですね。便利になればなるほど見えなくなるものも多くなると言うことです。仏教の「不増不滅」(増えもしなければ減りもしない)、又「縁起」(つながり)の世界は、この見えなくなるものに『気づけ』と言うことです。便利さの裏側に隠された、どんなに汚れ不潔であり、目を背けたくなるものであってもしっかりと『如実知見』(ありのまま)の見る勇気を仏教は教えます。