印刷はこちらからどうぞ

 
                                
                           
 正 当 化
 
「何事も皆偽りの世の中に死ぬるばかりは誠なりけり」、一休さんが詠まれたと聞きます。
 最近の「事故米」の偽装事件、年金の偽装、ありとあらゆるモノが「うそ、いつわり」」で塗り固められています。人間同士の信頼関係、何を信じたらよいか、全てが疑惑だらけです。いつからこんな世の中になってしまったのか、悲しいことですね。何もかもが「お金」で換算され、何か大切なモノを置き忘れてきているようです。失敗もあるでしょう。他を偽ることもあるでしょう。罪を犯すこともあることでしょう。人を傷つけることもあるでしょう。所詮、私達人間は、どうしてもそのような生き方しかできないのかもしれません。しかしその自覚が薄らいでいるのが今の私達ではないでしょうか。人間には自分を正当化したい本能のようなものが備わっているようです。なかなか素直に「謝れない」ですね。少々「悪いな」と思っても謝るのは勇気のいる難しいことです。凶悪な犯罪であっても、「俺は悪くない、親が悪い、会社が悪い社会が悪い」と責任を転嫁し、「みんなもやっている」等と平気で言います。食品偽装、汚職、政治家の先生、どなたも弁明の上手さに舌を巻きます。舌が何枚もあるからなのでしょうか。
もっとも最初から罪を認めたら社会の糾弾も、マスコミを先頭に激しいですね。もう二度と立ち上がれないような非難の嵐、叩き方をいたします。もう少し立ち直れる余地を残せばもっと素直になれるのかもしれません。自己正当化を仏教では「我執」と言います。「自分は間違っていない」という自己への執らわれは、「失敗は自分のせいではない」という責任転嫁、不承不承、認めざるを得なくなりますと「俺だけではない、みんなやっている」と言い、それでも追求されると「会社を守るため」等は平気であります。「開き直り」という言葉があります。
「悪かったな」「どうせ俺が悪いんだよ」「俺はバカだよ」等です。しかし本人は少しも悪いとは思っていないのです。これも開き直りでしょう。最近では開き直り以上の「逆ギレ」という珍現象までもおきています。相手に自分の非をとがめられますと、相手の怒りを上回る怒りで逆襲に転じます。子ども達の非行を注意いたしますと逆ギレされてナイフで「ブスッ」、このため大人は知らんぷり、のようです。絶対否認から責任転嫁、そして最後には反撃による逆ギレ、このようなことが平然とあたかも人間の権利のように平然と行われています。考えてみますと私達は自分を実力以上に見せたい、他人から悪く思われたくない欲求があるようです。
 そのために自分の弱さを隠そうとし、自分を粉飾いたします。そのためには謙譲とか、謙虚ささえも巧みに利用します。自分を偽っていること、無力な人間であることを他人に知られたくないのです。
 しかも自己正当化している自分に気がつかない、いや気づこうとしていないのです。 我執の強さを思います。この根っこには自分という存在を他人に認めてもらいたいという「我執」「我愛」の心が潜んでいるのです。
 「迷いの根本は我が身びいきにあり」という先人の言葉をかみしめたいものです。
 このようなことはなくならないのかもしれません。しかしそのようなものを抱えて生きている「自己の発見」が仏教そのものなのです。「仏道は自己を習うなり」につきるのです。