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             責 任 転 嫁
 
転んでも起き上がれない子供、体力の低下が言われる子供、又親も子供の不備なことはすべて他人のせいにして文句には事欠かないようです。学校では「モンスターペアレント」、病院では「モンスターペイシェント(患者)」も増殖しています。小中高の教師で病気求職者のうち六割が「うつ病」などの心の病です。子供相手よりも親相手に神経をすり減らしているようですね。「モンスターペアレント」の特徴は「うちの子可愛さ」の行き過ぎです。「うちの子はよい子なのにどうしていじめられるのか」「うちの子はスポーツができるのにどうしてレギュラーになれないのか」「うちの子が勉強の成績が悪いのは教え方が悪いから」等、こんな批判を噂や話題に取り上げ、先生が追い詰められていく構図になっています。先生が反論でもしようものなら、「校長に言ってやる」「教育委員会に訴えてやる」果ては子供までも「教育委員会に!」などと言う子供までも出現しているようです。教師はその対応に追われうつ状態になってしまいます。
 我が子が問題を起こしても、「悪いのは先生」「悪いのは学校」「悪いのは友達」といい「我が子が悪い」と、決して我が子の責任は問わないのです。親が学校に理不尽な苦情を言うのは「我が子の非」は決して認めたくないのでしょう。人間は挫折を繰り返しながら成長していくものですが、我が子の挫折は見てられないのでしょう。しかしそれが親の愛情と勘違いしてはいないでしょうか。ほとんどの子供は親の期待を裏切ります。皆様は子供が思い通り育ちましたか? 子供の小さな頃は未来の可能性は限りなく広いものでしょう。しかしほとんどが挫折し壁にぶち当たり、親も子供も折り合いをつけながら、等身大の自分に向き合い生きていくものなのです。誰もが石川寮やイチローみたいにはなれないのです。つまり誰もが「何でも出来る」事ではなく「出来ないこと」を受け入れながら歩み出すのです。この「出来ないこと」を他に責任を押しつけていくのがよく見られるようになっています。しかし子供はいつまでも親と一緒ではないのです。やがて一人で社会に放り出され打たれ、鍛えられます。子供にも「転ぶ」経験はさせるべきでしょう。近頃は「カーリングペアレント」と呼ばれる親もいるようです。
 冬のオリンピックですっかり人気になりましたカーリングは氷の上で邪魔な石をはじき飛ばし自分の石をサークルに入れる競技です。つまり子供の行き先の障害を、先手を打って親が先に取り除くと言うことです。子供は何の障害もない安全なところだけを歩むということでしょう。しかしこれが健全なことなのでしょうか。確かに「危険がいっぱい」では困りますがほどほどということでしょう。抗議が多いものですから、学校も行政も社会も「転ばぬ先の杖」というのでしょうか極端なまでに防衛的になっています。厄介なことにはなるべく関わりたくないということなのでしょう。そんなことが、先へ先へと安全ばかりを気にしながら転び方もわからないで育っていき、転んだら「責任は?」と探す風潮が満ちています。親の先回りもほどほどでしょう。仏教を学ぶのは「出来るようになる」事ではありません。「出来ない自分」を学ぶということです。責任を転嫁させて本当の自分と出会えず、自己を見失う、仏教は本当の自分との出会いです。