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                                   仙 涯 さ ん
 
博多の禅寺、聖福寺は、日本臨済宗の祖、又日本にお茶を伝えたと言われます栄西禅師が創建された由緒あるお寺です。このお寺に江戸時代後期に住持をつとめられたのが仙涯さんです。
 背丈は小さく、顔は自称「猿の日干し」などと言っていたようです。博多に住職として赴任して来られたときには「乞食坊主」と間違えられたようです。権力嫌いでありまして、若い頃美濃の国に住んでおりました時に、藩内で権力争いがおき、家老が代わったのでよくなると思っておりましたが、前よりも藩政が悪くなりました。それを皮肉って仙涯さんは次のような歌を詠みました。『よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう』。そうして仙涯さんは国元を離れました。以後各地を行脚し博多に招かれ八十七歳までの生涯を「博多の仙涯さん」として親しまれ過ごされました。本山妙心寺の命により、絹の紫衣をつけられるほどの高僧でありましたがほとんどそのようなものを着られず、普段は麻の黒衣で過ごされました。又博多の豪商、宗平が揮毫を頼んできた時には 「おごるなよ 月の丸さも ただ一夜」と詠み、いつの時代にもありがちな成金の増長を諫めました。今の日本を見たら仙涯さんならなんというのでしょうか。絵も字も達筆だった仙涯さんの残されたものは味わいのあるものが多くあります。ダルマを書いてその賛に「九年面壁 いやな事」と書きます。言うまでもなく達磨大師は中国禅宗の祖であり、壁に向かい九年の修行をされ、悟りを開かれたという故事をふまえています。「ことさら」が、いやだったのでしょうね。ある時には、新築の家に呼ばれて絵を乞われた仙涯さんは、筆をとるなり「ぐるりっと 家をとりまく 貧乏神」と書きました。 家の主人は青ざめ、祝いの客は固唾をのんでどうなるかと見守っておりますと、後に続けて「七福神は出るに出られず」と書き示しました。軽妙洒脱とはこの事をいうのでしょうね。
 仙涯さんが腹の中でこっそり笑っている姿が見えるようです。誰もが仙涯さんの画讃を欲しがって連日紙を持って訪ねてきます。仙涯さんもたまらんと思い次のような歌を残しています。「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに紙をおいてく」と。この仙涯さんが最後に残した言葉が「死にとうない 死にとうない」でありました。弟子が聞き間違えかと思い耳を近寄せますと「ほんまに ほんまに」と付け加えたと言うのです。悟りを開き、高僧と言われた仙涯さん、不思議な言葉です。もう死を超えたところにおられたと思っていた弟子の方々は驚いたようであります。でもそうなのでしょうか。私はこの言葉こそ、最も仙涯さんの、仙涯さんらしい言葉でないかと思っています。越後の良寛さん、博多の仙涯さん、どちらも自分に対して正直そのものです。だからこそ、良寛さんは子供に、仙涯さんは博多の町のどなたからも慕われたのでしょうね。そうして私達の宗祖親鸞聖人も「悲しきかな愚禿鸞 愛欲の広海に沈没し 名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず、恥ずべし傷むべし」(教行信証) と我が身を偽らず隠しもせず告白されています。 自己の愛欲と名利の迷いの深さを認めていく、この素直さ、正直さを思います。この中にこそ、私達の救いがあるように思います。以前、NHKで放映されました『さくら』の中での小林亜星さんのセリフ、「他人にウソをつくよりも自分にだけはウソをつくな」の言葉を思い出します。】