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 先 入 観
 
「仏教と社会生活は別物」「仏教や寺は死んだ人が相手」とかの先入観が強いようです。
 そのようなことから社会的発言や、政治的発言を宗教者がすることは眉をひそめられる事が多いようです。仏教が世間とは別物であり、そこには人間の悩み苦しむ心に寄り添うこととは離れているように思えます。浮世離れというようなことでしょうか。しかし本来仏教、特に私たち浄土真宗は出家の仏教ではなく在家仏教です。家族を持ち魚肉を食べ、家を養い、生活に迷い苦しむ私たちの教えです。そこには僧侶・俗人とか「坊さんだから」などの区別はありません。同一線上に並び共に苦悩し共に学ぶのが浄土真宗の世界です。
 私たちの人生は苦悩し迷いの連続です。又そのことによって起こるのが煩悩というものです。 煩というのは身体的なわずらい、脳というのは心のわずらいをいいます。
 しかもこのわずらいは一生の間、『無明、煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、瞋り腹だちそねみねたむ心多く間(ひま)なくして、臨終の一念に至るまでとどまらずきえず、たえずと』(一念多念文意)いうことです。昔から仏教で言われたのはこの煩悩を消し、なくすことが「さとり」と言われてきていました。親鸞聖人が比叡山での学びの結果、悩まれたのはまさにこのことだったのです。なまじっかの修行でしたら「ここまでやった」とか、「これだけ修行したのだから」とかの思いになりそうですが聖人は自分に偽ることをされませんでした。
 煩悩を消し去るのは不可能ということでしょう。現実に私たちの人生、生活の歩みは煩悩・欲望に満ちあふれています。一つ手に入れば次へというようにきりがありません。
 今、日本は昨年末に政権が交代し景気回復、強い日本の復活のかけ声で景気回復が声高に叫ばれています。政治も「アベノミクス」とかが提唱され支持も高いようです。しかしここで述べられているのは経済と景気、言い換えれば「カネとモノ」の問題ばかりです。
 カネとモノが大事なのはわかります。「世の中は金と女が仇なりけり どうか仇にめぐりあいたい」のです。これが原因で命を絶つ人、この飽食日本で餓死する人までいるのです。
 しかし「カネとモノ」が満足すればそれらの問題は解決し私たちは幸福になれるのでしょうか。カネとモノは豊かになりながら失ったモノも多くあるように思えるのです。一月に近くの温室でイチゴの収穫をいたしました。収穫をしながら違和感を感じたのです。
 季節の旬がなくなりイチゴに限らず一年中何でも食べられる、温室なのか、流通の発達なのかはわかりませんが「金になれば」何でもするのが今の私たちのようです。今私たちは夜の真っ暗闇を経験できません。昼間のように明るい夜の街、騒々しい音の数々、まばゆい映像に囲まれて生活しています。静かに「私を見つめる」事が難しい環境になっています。
 これだけ便利なものが溢れていながら心静かでないのです。仏法を聞くと言うのは本当の自分を取り戻すということです。世の中の勝手な動きに流され本当の自分を見失っているのです。 つながりとか絆を叫びながらそれを断ち切る便利なモノが溢れています。
 携帯電話を一日離してみませんか。テレビを一日見ないでみませんか。先入観を捨てて。
 何かそのあたりから本当が見えてくるように思えるのですが・・・・