戦  争



アメリカの同時テロは、驚きと共に世界中に衝撃と悲しみを与えました。一瞬にして5千人以上人々を殺戮する人間の残酷さを思います。もちろんテロを起こした事は許せません。犯人は厳しく糾弾されるべきです。しかしその報復として戦争を起こそうとしていることはどうでしょうか復讐のため、平和のためと言う大義のためどれだけの人々が生命を虚しくしていったことでしょうか。アメリカの大義、アラブの大義、日本の大義、それらがぶつかり合うのが戦争でありましょう。正義の戦争などはどこにもないのです。それは単なる自国の大義と称するエゴイズム(自国の我執と言ってもいいでしょう。私の正義とあなたの正義は異なっているのです。私たちの教団は毎年9月18日東京の千鳥ヶ淵戦没者墓園で全戦没者追悼法要を勤めさせていただいています。敵味方の区別なく、あらゆる戦争犠牲者の追悼法要であります。昨年逝去されました本願寺前裏方の歌『千万の いのちの上に 築かれし たひらける世を 生くる悲しさ』と、多くの戦争犠牲者の尊い、いのちの上に今の私が生かされていることに思いをかけられています。追悼とはまさにそれらの方々のいのちを思うことでありましょう。今年のこの法要で読み上げられた女子中学3年生の作文であります。題は『平和』です(抜粋)《・・・・・私たちは戦争をやっても平和が訪れないこと、勝者は誰もいないことを知っています戦争に負ければもちろん勝者ではありません。勝てばお金がもらえる、食べ物が食べられる、色々なものが手に入るかもしれません。でもどんなに生活が楽になっても戦争では必ず何か大切なものや人を失います。勝っても負けても大切なものを失うのは同じです。必ず心に傷が出来ます。体につけた傷はいつかは治ります。でも大切なものを失った傷は一生残ります。薄くはなるかもしれませんが、でも心の片隅でずっと残ります。残るのは苦しみ・悲しみ・憎しみ・恨み。喜び嬉しさは残ることはないでしょう。たくさんの人の命が犠牲になった悲しみや憎しみからはじまって、何よりも、何故戦争をしてしまったのだろうかという悔しさが一番残ると思います・・・・・でもいくら後悔しても謝っても亡くなった人が帰ってくるわけではありません。いくら悔しく思ってもその人が帰ってくるわけではなく、かえって亡くなった人を思い出してつらくなります。ひとの心を傷つけてしまうことは国と国との争いだけではなく私たちの毎日の生活の中でもよくあることです。》お釈迦様は『恨みは恨みによっては決して止むことはない』と争いの虚しさを示され、親鸞聖人は『一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり』と生きとし生けるものすべてが御同朋であると示されました。他のいのち、自らのいのち、あらゆるもののいのちに思いをいたすこと、これは仏教徒としての歩みの第一歩であります。民族、国家、ちいさなところでは自分と他人、仏様の目ではどれも同じかけがえのないいのちなのです。それらのものをすべて踏みにじる代表が戦争でありましよう。尊くないいのちなどはどこにも存在しないのです。いのちの差別化は自らをも傷つけていくことに他なりません。