しあわせって
 
二十世紀は幾度も世界戦争が行われ《争い止むことなし》でありましたが、二十一世紀になりましても、又人間は同じ過ちを繰り返しているようです。お釈迦様が二千五百年前に指摘されました人間の理想の姿の実現にはますます遠のいているようにも見えます。戦後から今日まで多くの苦労があったとは思いますが、日本人は当時描いていた夢のほとんどを、実現しています。 
にもかかわらず、自殺者三万人以上、自殺予備軍三十万人といわれるのは何なのでしょうか。
モノ、金、イノチ(寿命)、貪るように私たちは追い求めてきました。いや、きましたという過去形ではなく、現在もなお、求め続けています。有り余るほどそれらを持ちながら『まだまだ、もっともっと』の生活ぶりです。『それらを求めるからこそ人間は進歩した』という意見があります。たしかにその一面はありましょう。しかしそのことがどれだけ見えるものまで見えなくしてしまったことでしょうか。モノの溢れた処分にさえ困る社会、《金さえあれば》と富を追い求めた結果がが生み出すおぞましい犯罪、イノチの長さを実現したことから起こる長寿社会、そして少子化の問題、テーマの大きさに以前とは異なるものを感じます。環境問題、自然破壊、みんな人間が起こしています。他の動植物ではありません。『人間が万物の霊長』、そんなことはとても言えないことであります。子供達の教育の現場では《イジメ》が問題をなげかけています
《イジメ》は、『苛め』と書きます。子供が子供を『さいなむ』のです。ここにも『強いものが勝ち』『弱者は』敗北の思想が流れているようです。それは全く大人世界と同じであると言ってもいいと思います。今アフガン問題が連日のように報道されています。テロリスト対民主主義との戦いか、又宗教戦争とかいろいろな構図で見られていますが、たった一つ間違いのないことがあります。それは戦争はいつでも犠牲になるのは『弱者』ということです。武器を持った戦争に限らず『経済戦争』『就職戦争』『交通戦争』どれも被害者そして『犠牲者』は『弱者』ばかりでありましょう。私たちが必死に追い求めているモノ、金、イノチがそろえば幸せになるどころか、傷つけあい、いがみあいの原因ばかりをつくっているように見えるのです。人間が夢中で追求するそれらのもの、そしてそれらのもののために墓穴を掘り滅んで行くようでもあります。
富に固執した結果、自然に反した復讐を自然界から受け始めているのではないでしょうか。
今、札幌の町ではホワイトイルミネーションで大通り、駅前通りと昼間のような明るさです。
でも私は思うのです。わずか二十数年前に石油危機があり日本国中大騒ぎをして、『資源の無駄使いは止めましょう』などと叫びました。もうすっかり忘れてしまったのでしょうね。いま当時の評論家諸氏はその言葉に少々責任を持ったら良いとおもうのですが・・・・・
仏教は少欲知足の教えであります。そして自らの我執を厳しく見つめます。しあわせは、おぼつかない足取りでも真実に生きていく他はないのです。そんな不器用な生き方をしませんか!