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四   住   期
 昔からインドでは人生を四期に分けて考えられていました。生まれてから第一期を「学習期」といい、人生における生活等に必要なことを学ぶ時期であります。それが終わると一人前となり独立し、家庭を持ち家族のために働く「家住期」です。子供も成長し自立するようになりますと、騒がしい場を離れ、ゆったりとした林の中にささやかな住まいをもうけ、本を読んだり瞑想に耽ったりする「林住期」を過ごします。そして最後に人生を振り返りながら旅に出る「遊行期」を迎えるのです。人生を四期として人生設計を立てるということです。
 人生のけじめとしてこの四期を考える事は人生八十年の日本においても意味のあることでしょう。生まれてから学校へ行きこれからの人生の生き方を学ぶ「学習期」、次に家族のために働く勤労の「家住期」、その後定年となりゆったりと若い頃忙しさで出来なかったことが出来る「林住期」のような時期を迎え、最後に旅行に出たりする「遊行期」に見立てるということも出来るのです。今いつまでも、いくつになっても私たちが苦しんでいるのは自らのこの「けじめ」のなさかにきているようにも考えられます。もちろん、このような人生を送られるのは限られた方だけなのかもしれません。しかしこのことをあえて「意識する」生き方があってもいいと思うのです。そうでなければ「いつまで働いたらいいのか、いつまで学んだらいいのか、いつまで家族を養わなければならないのか、」きりがない苦しさを味わい、落ち着きのない人生を終わっていかなければなりません。学習期に遊びほうけ、家住期には、働かず、林住期をむかえても、金銭欲、名誉欲にとりつかれている現象があちらこちらで見られますね。
 六十五歳から前期高齢者ということになりますと、私ももうすぐです。ところが私も含め今六十五歳の方は高齢者の意識はほとんどないと思います。健康で若々しいことは有り難いのですが、年代の覚悟も必要ではないでしょうか。もっと積極的にこの人生としての四期を考えたらどうでしょうか。人生の設計をここに求める生き方は「けじめ」に結びついてきます。
 お釈迦様はこの生き方を実践された方です。生まれて学び、家庭、家族をもうけ、林に住み悟りを開かれ、最後に遊行(布教・伝道)の旅に出かけるということです。経典にお釈迦様が修行(ぎよう)のため林に住んでおられたときに、悪魔が悟りの妨げをしようとささやきかけます。「汝は森の中にあって沈思す。それは寂しいことだ」と。しかしお釈迦様は「自分はこのような生活が楽しい、世人の楽しまないところにおいて、愛着なき人は楽しむであろう」と答えます。愛着があるからこそ私たちは人生に苦しみ、生涯を重荷を背負い、死んでいかねばならないのです。 今現実に日本では不景気風が吹き荒れ、このようななゆとりは持ちようがないのかもしれません。しかしこの心持ちは忘れないでいたいのです。「ゆとり」とはこのようなものでしょう。
「名利(名誉欲・金銭欲)に使われて閑かなる暇なく、一生を苦しむる」(徒然草)、と吉田兼行法師は語り、これを愚かなる人とまで言いきられました。閑かなる暇を私たちは意識して持つべきものなのかもしれません。人生を長さだけでなく深みを持たせるために慌ただしい現代人にこそ必要なのかもしれませんね・・・・・